「”スーパーサイヤ人の闘い”といわれたヘーゲル研究会」、原稿を何度書き直しても「もっと、もがけ!」…哲学者・苫野一徳さんが師匠や担当編集者から受けてきた「教育」の共通項
ヘーゲルを巡る「スーパーサイヤ人の闘い」
――特別な現代新書として、竹田青嗣+西研『超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』』(2010年刊)を選んだ理由をお聞かせください。 苫野:理由は2つあります。1つめは、この本と同じお二人による『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』(講談社選書メチエ)が、私の哲学体験の原点の一つだからです。 すでにお話したように、私は大学院生のころに竹田先生の門を叩きました。2005年のことでした。当時の私は、まだ「人類愛」教の教祖臭が抜けきらないすごく変なやつだったので(参照「“心を燃やす”哲学者・苫野一徳さんが「愛の本質」を20年考え続けるきっかけになった「人類愛の啓示」とは何だったのか」)、「なんか、やばいのが来た」と最初は警戒されたのですが、それでもすぐに受け入れてもらって、かわいがっていただくようになりました。 そのときは、私は哲学者になるなんて全然思ってなかったんですよ。小説家をめざしていたのと、「人類愛」の何かをしたかったのと(笑)、あと、新しい学校というか、教育環境を創りたい、と考えていました。まさに、のちに『教育の力』で書いたようなことです。 そんなふうに、いろいろ思いがありました。だけど、竹田先生と一緒に修行させていただく中で、哲学によって「人類愛」を崩壊させられた自分を、再び哲学で立て直していけそうだという感じがやってきたんです。そして、教育の本質や愛の本質などを、哲学によってちゃんと解明することができるぞという確信を得ることができたんです。 そんなわけで、だんだんと哲学の道に入っていくことになりました。その最初のきっかけになったのが、竹田先生と西先生が主催しているヘーゲルの研究会でした。編集担当の山崎さんと出会った研究会です。 ――どんな研究会だったのですか。 苫野:ヘーゲルの『精神現象学』を完全解読するというプロジェクトでした。メンバーも錚々たる方々で、橋爪大三郎さんや、加藤典洋さんなども参加されていたと思います。そういう方々の中に、哲学の世界に足を踏み入れてるか踏み入れてないかわからないような私も入れていただいたのです。 その研究会では、とんでもない読み方がされていました。ドイツ語の原典、フランス語訳、英語訳、日本語の全翻訳、それらを全部揃えて、一行、一行、解読できないところがなくなるくらいまで読み込んでいくのです。もちろん、いろいろな研究書も踏まえながら、一行一行をめちゃくちゃ細かく細かく読んでいく。 最初の頃は、とにかく難しくて全然読めないんです。ヘーゲルの『精神現象学』と言えば、哲学史上最も難解な哲学書の一つです。そんな難しい本を、ものすごい高次元で議論している竹田先生と西先生を見て、私は当時、「スーパーサイヤ人の闘い」と呼んでいました。目には見えないけど音は聞こえる。転じて、なんか日本語をしゃべってるみたいだけど、何言ってるかわからない、みたいな……。 ――小学生の頃は興味がなかった「ドラゴンボール」もその頃は嗜んでいらっしゃったのですね。(参照「“心を燃やす”哲学者・苫野一徳さんが「愛の本質」を20年考え続けるきっかけになった「人類愛の啓示」とは何だったのか」)その「スーパーサイヤ人の闘い」について詳しくお聞きしたいです。 苫野:表面的な理解なんかじゃないんです。外部から分析してああだこうだじゃない。ヘーゲルが言わんとしていることの肝は何なんだ、こいつはなぜこれを言わなきゃいけなかったのか、そこにはどんな意義があって、どこまで深く本質をつかんだのか、ということを、批評的に読みつつも、「おまえの心臓をつかみとってやる!」という気迫で読んでいくんです。 ――まさに闘いですね。 苫野:そういう議論を目の当たりにすることが私にとって哲学の最初の経験になったのは、すごくいい洗礼になりました。 その研究会をもとにまとめられた『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』と、それをさらにわかりやすくまとめた『超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』』は、哲学書ってこう読むんだ、と教わった私の原点といえる本なのです。