最新考古学の「物証」から言える「卑弥呼」像を率直に述べる―春成秀爾『古墳・モニュメントと歴史考古学』磯田 道史による書評
◆卑弥呼など、実証の上に立つ推理 考古学者は慎重居士だがこの論文集は違う。「真の考古学は実証の上に立つ推理の学であるべき」と、大胆に「推理」に踏み込んでいる。編者の春成秀爾(はるなりひでじ)氏は重鎮だが、なんと巻頭論文で、箸墓古墳は卑弥呼の墓であると推理。そればかりか、卑弥呼の出身地や女王に「共立」された詳細まで、最新考古学の「物証」から言える「卑弥呼」像を率直に述べる。内輪話だが、歴史と考古の学者には「酒場だけの勇者」も多い。専門家同士の酒席では「卑弥呼の墓は箸墓でいい」と断言するが、論文では無難な話だけ。一般にも口をつぐむが、この本は例外だ。松木武彦氏の日本列島の戦争起源論や千田嘉博氏の最新城郭考古学論など25本の掲載論文全てが踏み込んだ記述で潔い。 この紙幅では全部は評せない。春成論文だけ紹介する。箸墓は墳丘長280m、後円部径160m。最古最大の定式化された前方後円墳だ。盛土は五段築成だが、後円部てっぺんの五段目の円壇だけが石だらけの土。四段目までと構造が違う。炭素年代測定では築造開始は226~250年にさかのぼる可能性があり、春成氏は、卑弥呼の生前から10年程度をかけて四段目までが築造され、247年の卑弥呼死後、後円部頂上に円壇が築かれて埋葬されたと推測する。この最重要の円壇上から、龍や水を表す弧帯文をあしらった吉備(岡山)由来の宮山系特殊器台・都月系円筒埴輪(はにわ)が出土。被葬者の卑弥呼は吉備につながる人物との見方が学界に浸透しつつある。 205年頃、中国大陸・遼陽の公孫氏が楽浪郡の南を分けて帯方郡を建て、韓(朝鮮半島)と倭(日本列島)も属すとした。220年、魏の曹操が死去。この頃、倭国乱の収拾がはかられ、卑弥呼が女王に「共立」された。その時、公孫氏政権から大量入手した「画文帯神獣鏡」を配布共有したらしく、岡山を除く、今の奈良・大阪あるいは徳島・香川から出土するという。春成氏は吉備・大和の発掘成果から卑弥呼共立から箸墓築造の細部を推測。卑弥呼は弟と10歳前後で吉備から大和に連れてこられ女王に共立された。おそらく父も同行して後見役をつとめたとも。なぜ吉備か。吉備からは人頭龍身の文様の土器が出る。楯築(たてつき)という吉備の巨大墳丘墓もこの文様を刻んだ石を置く。卑弥呼の祖先は龍と女が交わって生まれた龍女の子孫とされるカリスマの一族、と春成氏。魏志倭人伝のいう卑弥呼の「鬼道」は龍女の祖先祭祀で卑弥呼は龍女を演じたという。水田稲作は龍が象徴する水が肝心だからだろう。箸墓の前方部が撥(ばち)形に広がるのも、後円部への道とは別に弧帯文の影響があるとする。箸墓周辺の初期古墳には、吉備系の器台・埴輪文様が出る古墳と、大和系の要素が強い古墳の二種類があり、前者は吉備から来た卑弥呼の弟など親族。後者は大和の有力者で卑弥呼の重臣たちの墓と春成氏はみる。その後、箸墓古墳と相似形の古墳が全国で作られ、倭国は政治統合と古墳の形と大きさで豪族が序列化された。 考古学者の踏み込んだ推理で既存のぼやけた歴史像は画像処理の如く一気に鮮明化する。この画像処理をどこまで信じるかは読者次第だ。 [書き手] 磯田 道史 歴史学者。 1970(昭和45)年岡山市生れ。国際日本文化研究センター准教授。2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職。著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。 [書籍情報]『古墳・モニュメントと歴史考古学』 著者:春成秀爾 / 出版社:雄山閣 / 発売日:2023年12月27日 / ISBN:463902956X 毎日新聞 2024年2月17日掲載
磯田 道史
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