校庭の土俵と丘から観た夜景 姿は変えても「故郷」だ 双日・藤本昌義会長
修猷館高校も江戸時代の藩校が前身で、校風は自由。再訪すると、個人を重んじて群れない日々が、浮かんでくる。その自由さを満喫し過ぎて、大学受験で浪人した。それでも教育熱心だった母の思いに応え、翌春に東大文科I類に合格。予備校を含めて東京に約5年いて、法学部で就職を控えて思った。 「東京にはもう住んだから、次は海外に住みたい」 81年4月に日商岩井へ入社。輸送機械部で、前回で触れたように米企業からトラック向けなど自動車部品の注文を受け、国内メーカーにつくってもらい、輸出する仕事をこなす。5年目の秋に米デトロイトへ赴任、今度は米企業から部品の注文を取り、図面を日本へ送る側を務めた。これまた見知らぬ土地で初めて会う人とのやり取りだったが、英語の注文やクレームを聴き取る苦労は、半年で終わる。 約6年で東京の本社へ戻り、自動車部、ポーランド駐在を経て再び本社へ戻ると、また別の未知の世界が待っていた。バブル崩壊後の不良債権処理に伴う資金繰りと事業の立て直し計画の作成だ。同じ総合商社のニチメンとの合併も動き出し、その準備作業にも引き込まれる。 ■理由は分からないが「干された」と覚悟でも居場所はあった 2008年12月からのベネズエラの自動車子会社の再建役も、本号掲載の前回で触れたので省くが、『源流』からの流れが課題も困難も押し流してくれた。ただ、帰国するとき、上司に「自動車部へ戻ってこなくていい」と突き放された。 理由は分からないが「干された」と、覚悟する。でも、自動車部を指揮する機械部門長が、空席だった米国の機械部門長にしてくれた。ニューヨークへ2年いて、カリフォルニア州で欧州の高級車の販売店を次々に買収し、販売網を構築する。いま双日の収益源の一つになって、居場所をつくってくれた先輩に少しは恩返しができた。 2017年6月に社長就任。人事部から社員たちの評価表を取り寄せると、7割もが「平均点」だ。リスクを取らず、「守り」に閉じ籠もりがちになった社内を、映していた。そこで評価制度を改め、新規事業への提案を促す投資資金枠3千億円を用意する。守りが得意な農耕民族よりも攻めに挑む狩猟民族こそ「商社らしさ」だとの思いは、ますます強まっていく。 どの「未知」の世界へいっても、溶け込み、楽しみ、また次の「未知」へ進む。会長になった後は、日々の議論と決断に多忙な社長に代わり、世界中の取引先を訪れている。もちろん、よく知った自動車分野の顔ぶれだけではない。『源流』からの流れは、進む先を選ばず、広がっている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年12月23日号
街風隆雄