校庭の土俵と丘から観た夜景 姿は変えても「故郷」だ 双日・藤本昌義会長
■校庭の土俵と櫓理科室の骸骨の見本どれも楽しい思い出 校庭にあった土俵と櫓は、いまはない。幼いときの転校で、地元育ちの輪に入るのは、簡単ではなかった。でも、飛び込んで、ひとたび仲間になれば、あとは簡単だ。掃除当番で校舎の奥にあった理科室へいくと、骸骨の見本などが置いてあり、みんなで「お化けが出る」と怖がった。いまでは、楽しい思い出だ。「未知」の世界へ溶け込んでいく力がついて、『源流』の水源がたまり始めていた。 卒業式のときは、もういなかったから、卒業名簿に名前はない。大きくなって級友らと連絡を取りたくなっても、取れなかった。でも、社長になって福岡市で開いた株主への経営説明会で声をかけてくれた株主が、当時の同級生だった。以来、級友たちとの集まりが生まれる。 『源流Again』の日の朝、大分市の市立城東中学校も訪れた。こちらも73年3月に卒業して以来、半世紀ぶりに校門をくぐる。校舎は増改築されているが、風情は同じで、懐かしい。2年生で転校してくると、学年に12学級もあって、応急のプレハブの校舎で授業を受けた。 1958年1月に福岡市で生まれ、同市と佐賀市で三つの小学校と二つの中学校を巡って、見知らぬ地域と初めて会う子どもたちに溶け込むには、どう振る舞えばいいかが身についていた。学年の生徒が500人を超すなか、まず数カ月、誰がリーダー格か、みきわめた。やがてリーダー格と親しくなると、みんなに一目置かれる。ただ、妙に対抗しては、台無しだ。「対等」に付き合うことで、周囲もそうみてくれる。「未知」の世界への適応力が、さらに蓄えられ、『源流』が流れ始める。 父の勤務先の社宅があった丘の上から、製鉄所などがあるコンビナートがみえた。父も、そこで働いていた。夜はコンビナートの灯りが、独特の夜景を描いていたのを、覚えている。あの夜景は、勧興小学校の校庭にあった土俵とともに、自分にとって「故郷」の光景だ。 ■1学期だけの高校で女生徒のひと言「藤本君、残ってよ」 城東中学校を卒業し、ラグビー強豪校の県立大分舞鶴高校へ進む。大阪府東大阪市の花園ラグビー場である全国大会を目指していて、やりたかったが、怪我を心配する母の反対で激しい運動部は諦めていた。1学期だけで福岡県立修猷館高校への転校が決まると、級友たちが「残って寮に入れ」と引き留めた。 その一人が1年先に大学へ進み、就職のときに日商岩井(現・双日)へ誘ってくれた。転校では、女生徒にも「藤本君、残ってよ」のひと言をもらった。甘酸っぱい思い出だ。