連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.36 ローラT163/T222/T260
507のチャンピオンシップを制し、4385回の優勝を誇るレーシングカーメーカー。 それがローラ・カーズである。設立者はエリック・ブロードレイ。長い自動車レースの歴史においても存在感を示した人物である。 【画像】レーシングカーコンストラクター、ローラが送り出したT163、T222、T260各モデル(写真6点) ローラ・カーズはエリック・ブロードレイによって、1958年に設立された。彼は学校を出た後に積算士として働き、余暇を使ってモータースポーツを楽しんだという。この時代のイギリスには、盛んにモータースポーツにチャレンジする熱が強く、コリン・チャップマンしかり、ジョン・クーパーしかりで、皆自らが作り上げたレーシングカーでレースに参戦していた。ブロードレイの場合、最初に作ったブロードレイ・スペシャルが各地のレースで優勝したことから、これを欲しがる顧客に応えて同じ仕様のマシンを開発、当時流行っていたブロードウェイ・ミュージカルコメディ、「ダムヤンキース」の挿入曲「Whatever Lola Wants」から名前を取り、ローラMk1とされた。そして1958年にこのMk1を3台作ってローラ・カーズが発足した。 黎明期はシングルシーターのマシンが多かったが、Mk6で初めてスポーツプロトタイプに挑戦。それがフォードGT40に発展したことは過去にも書いた。初めてのオープン2シーターが誕生するのはT70。1965年のロンドン・レーシングカーショーで公開され、ジョン・サーティースとのコンビで1966年のCan-Amチャレンジカップで優勝を遂げると、以後Can-Amの常連として多くのプライベーターもローラT70のユーザーとなった。日本にも複数のT70が導入されたが、満足な体制がとられていなかったことが原因か、大きな成功を得るには至らなかった。 そのローラのCan-Amカーは、1968年にT160へと発展する。しかし、デリバリーが遅れたことに加え、この時もジョン・サーティースとコンビを組み、彼が開発のテスト・ドライバーを担当したものの、華々しい成果をあげるには至らなかった。とりわけ前年に誕生したマクラーレンのニューマシンM6Aが大活躍し、その後継モデルとして登場したM8Aの圧倒的強さの前には歯が立たなかった。T160は同型のブラッシュアップモデルがT165まで継続されたが、満足した結果を得ることができなかった。そこで戦略を変更し、開発をイギリス主体で進め、レースのマネージメントは当時アメリカでローラのインポーターであったカール・ハースに任せることにした。そして開発に専念した結果T160シリーズの後継モデルとして誕生したのがT220である。 T220はT160の延長上にあるマシンだったが、改良が加えられてショートホイールベース化したことで運動性能の向上が見込まれていた。1970年シーズンはカールハース・レーシングからワークスのローラとして参戦。たばこメーカーのL&Mからのスポンサーシップを得て資金の潤沢であったようである。ドライバーとして抜擢されたのは、ピーター・レブソン。T220のスピードの速さは十分に証明されて、予選ではトップ4に加わる戦闘力を見せたものの、エンジンには常に問題があり、参戦した10レース中、完走できたのは僅かに3レースに過ぎず、とりわけエンジンの耐久性のなさが問題であった。また、運動性能向上を目論んでショートホイールベース化したものの、レブソンによればブレーキング時のハンドリングがピーキーだということで、ロードアトランタでクラッシュしたのを機に、それまでよりも10インチ長いシャシーに変更。T220は名乗ったものの、これが実質的にT222でありカスタマーカーでもあった。 1971年シーズン、カール・ハースは新たなドライバーとして、日本人である風戸裕を迎え入れた。とはいえT222はこの時点既にカールハース・レーシングの主力マシンではなく、新たなローラのCan-AmマシンはT260にスイッチ。ダルノーズのマシンをドライブしたのはF1ドライバーでもあるジャッキー・スチュワートであった。風戸の乗るT222は善戦するも5位が最高位。一方ジャッキー・スチュワートがドライブしたT260は、2度の優勝を持ち帰り、総合でも3位に入る活躍を見せ、1967年以来の優勝をローラにもたらした。 ロッソビアンコ博物館のローラT222は、1970年シーズンにピーター・レブソンがドライブしたシャシーナンバーHU222/02のマシンである。2台作られたT220の改良版ともいえる、実質的なT222のプロトタイプである。T163に関するシャシーの情報は残念ながら無い。 そしてT260は2台作られたT260の2台目。HU2というシャシーナンバーを持つマシンで、このマシンをジャッキー・スチュワートがドライブすることはなかったそうである。1972年シーズンにTom Heyserというドライバーに売却されてさらに2シーズンCan-Amで戦ったマシンだ。 文:中村孝仁 写真:T. Etoh
中村 孝仁 (ナカムラタカヒト)