フィリピンのジャングルでの皇軍兵士のおぞましい「人肉食行為」…「日本赤十字社」の従軍看護婦にも“玉砕”の時が
中編『死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社」従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」』から続く 【写真】太平洋戦争を描いた映画や漫画で問題になる「敬礼」「服装」の「意外な実態」
「処置」された傷病兵たち
1945年1月にマニラを撤退してバギオへ移り、さらに北部のジャングルへと逃げ込んだ日本軍。「日本赤十字社(日赤)」と陸軍の看護婦たちは、その劣悪な状況の中で傷病兵の看護をした。 4月23日、米軍が接近したために金鉱山に設けた“病院”からも撤退する事になった。朝鮮からの日赤看護婦・潘姫静(パン・ヒジョン)さんは、日赤の制服では動きにくいので、もらった布で服とリュックを作り髪も切った。最小限の荷物だけを持ったが、それでも 20キログラムあった。 そしてジャングルでの逃避行という大変な事態を前に、鬼畜の所業が行なわれた。「衛生兵が患者たちを処置したと何度か聞きました」と潘さんは言う。潘さんと一緒に朝鮮で召集された蔡然福(チェ・ヨンボク)さんは次のように述べた。 「鉱山を撤収してジャングルへ逃げる際、動く事のできない数百人の患者がいました。その人たちは仲間の兵隊によって、クレゾールの注射で殺されたそうです」 こうしたことは、ジャングルでの逃避行の中でもあったという。動くことのできない傷病兵を、自分たちの撤退の足手まといになるとして殺害するということは他の戦場でもあった。「日本人女性である看護婦に殺してもらうことがせめてもの供養」という理屈で、兵士ではなく看護婦に殺害させることがあったという。中国東北部の「関東軍」の病院では、衛生兵ではなく看護婦が青酸カリを注射したという。 「ジュネーブ条約」では、退却に際して負傷兵を前線から後送することができない場合には、衛生要員をつけてその場に残置し、敵の保護にゆだねることができるとしている。だが日本軍は、動くことができない兵であっても、敵の捕虜になることを一切許さなかった。それは「生きて虜囚の辱めを受けず」とした「戦陣訓」があったからだ。これによって、どれほど多くの将兵や民間人までもが自決や殺害されなければならなかったことか。 ジャングルの中での、兵士と看護婦らの絶望的な逃避行が始まった。兵士たちは、眠りながら歩く。カルシウム不足で、歩いているだけで骨折する兵士もいる。木の上からは、人間の血を吸うためにヒルが次々と落ちて来る。大量に吸われて死んだ人さえいる。力尽きた兵士たちの死体が路上に積み重なっていても、誰も気にしない……。 こうした死と隣り合わせの逃避行が行なわれたルソン島北部のジャングルへは、看護婦だけでも約500人が逃げ込んでいたという。