フィリピンのジャングルでの皇軍兵士のおぞましい「人肉食行為」…「日本赤十字社」の従軍看護婦にも“玉砕”の時が
朝鮮戦争でも看護婦を動員
日赤から戦争での傷病兵看護のために看護婦を出したのは、アジア太平洋戦争が最後ではなかった。 1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる。この戦争で北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)・中国・ソ連と戦ったのは、韓国・米国など16ヵ国の「国連軍」。日本はそれに入っていないが、さまざまな形での多大な支援をした。分かっているだけでも、「海上保安庁」職員や米軍雇用の船員など60人近くの日本人が死亡している。日本は事実上の“参戦国”だった。 「国連軍総司令官」のダグラス・マッカーサーは、日本を戦争遂行のための巨大な兵站基地にしようとし、吉田茂首相はそれを積極的に受け入れる。日本国内で大量の物資調達が行なわれ、港湾・鉄道などが使用された。米軍に雇用された労働者は最大時には約30万人にもなり、米軍が集めた日本人の港湾労働者数千人が韓国の港で働いた。 この戦争で「国連軍」は、約36万人の死傷者を出したという。そのため膨大な数の傷病兵が、日本へ次々と移送されてきた。日本各地の14都市には、「国連軍」の野戦病院が設置。そして日赤本社は、マッカーサーからの看護婦の派遣要求に対し全面的に協力することを決めた。 朝鮮戦争が始まって半年後、日赤は看護婦を再び「赤紙」を使って召集したのだ。アジア太平洋戦争が終わってからも、日赤の看護婦養成のための学校を卒業した看護婦には召集に応じる義務があったからだ。その根拠となる「日本赤十字社戦時救護規則」が廃止されたのは、1965年6月になってからの事だ。 日赤本社は九州の支部に対し、救護班派遣を要請。佐賀県では、その要請を受けたのが12月8日午後8時だったが、11日午前11時には佐賀市役所で出発式が行われることになった。 急なことなので、日赤支部の病院で勤務している看護婦が召集された。その看護婦16人は濃紺の制服姿で、飯ごうと水筒をけさ掛けていたという。まさしく、アジア太平洋戦争で戦場へ送られた救護班と同じ姿なのだ。 派遣先は、福岡県の「国連軍第141兵站病院」。九州の各支部から、第1次54人・第2次25人・第3次17人を派遣したのである。この病院には傷病兵約1500人が収容されていて、看護婦は約1000人もいたという。 ところが日赤本社は、この「国連軍病院」への看護婦派遣という事実を隠し、病院内での服務内容などを機密扱いにして看護婦に守秘義務を課すことまでしたのだ。また日赤は、「国連軍」兵士への献血や慰問の金品を送る運動を全国で精力的に展開。 「敵味方なく救う」という赤十字の基本精神からすれば、朝鮮戦争の当事国でもない日本の赤十字社は、北朝鮮の「朝鮮赤十字会」へも医薬品などを送るべきだったのではないか。