フィリピンのジャングルでの皇軍兵士のおぞましい「人肉食行為」…「日本赤十字社」の従軍看護婦にも“玉砕”の時が
看護婦にも“玉砕”の時が
話はルソン島のジャングルへ戻る。口にできそうな物はすべて食べ尽くし、看護婦たちにも死が迫っていた。「玉砕するのは近い」という話が伝わってきた。埼玉県からの日赤救護班には、3人に1個の手榴弾が渡された。大分県の救護班では、仲間の負担を減らすために自ら麻薬を注射して自決した看護婦がいたという。 黄玉緞さんら台湾からの陸軍看護婦は、6月9日にキアンガンへたどり着いた。ここは敗戦後の9月2日に、山下奉文・第14方面軍司令官が米軍に降伏した場所だ。この地で全員が自決することになった。 整列して皇居の方向へ「東方遥拝」をし、「君が代」と「海ゆかば」を歌った。そして、まず患者たちが注射によって「処置」された。ところが、である。玉砕は突然、中止になったのだ。「命じられて患者たちを殺した兵士はその後、精神に異常をきたしたんです」と黄さんは言う。 フィリピンでの日本軍の軍人・軍属の死者は約50万人。その「名誉の戦死」の実態は、多くは餓死と無意味な玉砕によるものだった。フィリピンで戦死した従軍看護婦は、日赤救護班の114人、陸軍看護婦の16人だという。 激しい爆撃を繰り返していた米軍機が突然来なくなった。日本が「ポツダム宣言」を受諾したのだ。潘さんは、天皇とマッカーサーが並んだ写真が入ったビラで日本の敗戦を知る。 看護婦たちは武装解除された将兵たちと共に、米軍のトラックに乗せられた。輸送される途中ではフィリピン人たちから「ジャパン、ドロボウ(日本語)」との罵声を浴び、手当たり次第に石を投げつけられた。日本軍の占領によって肉親を失ったフィリピン人にとって、戦闘に参加していない看護婦であっても増悪の対象だったのだ。 看護婦たちも、マニラ郊外モンテンルパの捕虜収容所へ入れられた。ここには大勢の朝鮮人「慰安婦」もいた。最初の引き揚げ船には、朝鮮人たちが乗る事になった。「343救護班」にいた3人の看護婦や軍人・軍属など、数百人の朝鮮人が日本の軍艦で帰国した。 「親日派と言われるので、日赤看護婦だった事は人には話せなかったんです。夫は、私が従軍した時の話をするのを嫌がっていました」と潘さんは言う。蔡さんは「人のためになるような生き方をしたいと思って日赤看護婦になったのですが、その事で人生が変わってしまいました。今でも看護婦になった事を後悔しています」と何度も繰り返した。