出撃後ほぼ「全滅」日本海軍潜水艦の最大欠点、攻撃をかわす長時間潜行が可能な空調があったら
そのうえ、どちらの方法も潜水艦が冷水層に入り込むとお手上げである。ほどんどの条件で、音響は温度変化層を通過できない。駆逐艦からの捜索音波は潜水艦には届かないし、潜水艦側の騒音も駆逐艦には届かなくなるのである。 攻撃の成功率も低かった。 基本となる爆雷攻撃は面倒であり、不確実でもあった。3分後に潜水艦がいる場所を推測し、そのわずかに先に駆逐艦を移動させ、そのうえで爆雷を投下する必要がある。 さらに、その将来位置の推測もいまひとつであり、投下する爆雷の弾道や沈下速度にもブレがあった。いきおい、攻撃は不確かとなるため1度や2度の攻撃では潜水艦は沈められなかった。
潜水艦も攻撃回避に努めた。針路の急変更や加減速で将来位置を変化させれば、照準を外せた。爆雷も水圧設定爆発なら深度変更でかわせる可能性もあった。 連続攻撃もできなかった。爆雷攻撃のあとには潜水艦は探知不能となるからである。爆発で生じる水泡と残響の影響からソーナー探知や雑音探知は不可能となり、しばらくの間は再探知や再攻撃はできない。 つまり、潜航さえしていれば潜水艦はそれなりに生き残れたのである。 ■2日間の潜航が限界だった
ただ、日本潜水艦の場合は2日間の潜航が限界であった。船体規模によるが20時間から40時間で限界を迎えてしまう。頑張っても50時間を超える潜航はできなかった。 そのため探知や攻撃をかわし続けても、最後には浮上せざるをえなくなる。浮上中に爆雷攻撃を受けて沈む。あるいは浮上後に砲撃や爆撃を受けて沈んだのである。 では、なぜ潜航を続けられなかったのか。 それは、空調機能が貧弱だったためだ。なによりも戦争最末期まで、現実的な二酸化炭素除去ができなかった。艦内の冷房除湿は最後までできていない。そのため短時間で艦内環境は生存限界に達してしまうのである。
これは、名古屋経済大学の中西昌武教授が「厄介な乗り物としての潜水艦(2)」としてまとめている。日本の潜水艦では1時間あたり0.2~0.3%の割合で二酸化炭素濃度が上昇する。そのため、長くとも35時間後には失神濃度の7%に到達する。 その頃には湿度100%のままで室内温度も40度を超えている。そのままでは窒息死、ないし熱中死してしまう。だからアメリカ駆逐艦との砲戦を覚悟のうえで、浮上を選択する旨が説明されている。