『大吉原展』から考える―「江戸文化の集積地」吉原遊郭の歴史をいかに伝えるか
花魁の実像
実在した花魁は、どんな人たちだったのか。 「実像が分かる資料はありません。例えば『遊女評判記』は、この人は才能があって美しい字を書くなどと記していますが、性格までは分からない。浮世絵は、絵師の個性、歌麿なら歌麿ならではのスタイルで遊女を描くので、そこにリアルな個人は見いだせない。だからこそ妓楼と花魁の名前を記したのです。西洋だったら、リアリズムを重視して、もっと誰だか分かる絵にしてくれと言われるのではないでしょうか」(古田) 浮世絵と対照的なのが、明治時代初期に高橋由一が描いた『花魁』だ。 「初めて油絵で遊女を描いた作品で、稲本楼の花魁、4代目小稲(こいな)の肖像画です。当時の『東京日日新聞』によれば、ある人が変わりゆく遊女の姿を油絵にとどめたいと、由一に依頼したそうです」と古田教授は解説する。 「髪型は、廃れつつあった下げ髪をわざわざ結わせたのでしょう。しかも、やや乱れた感じで描かれている。由一という人は、ちょっと崩れたところを描きたがる傾向があり、それが彼のリアリズムでした」 花魁の表情は硬く、疲れたようにすら見える。由一の弟子によると、完成品を見た小稲は、「わちきはこんな顔ではありんせん!」と泣いて怒ったそうだ。
江戸と現代をつなぐ問題意識
由一の「花魁」が描かれてから半年後の1872年10月、明治政府は娼妓解放令を発布する。西洋諸国から遊女の人身売買を批判されたことが背景にある。かといって、遊女が消えたわけではなく「自由意思」で営業していた。しかし、西洋化に伴う価値観の強烈な変化によって、江戸の吉原文化は急速に失われていった。 「遊郭には遊女たちのつらい現実があったことを忘れるべきではありません。今日の価値観では絶対に許されない制度です。それを踏まえた上で、吉原の江戸文化の発信地としての歴史は伝えていきたい」と古田教授は言う。「独特な虚構の世界が250年続いた背景には、それを可能にしたさまざまな人たちの膨大な創造的エネルギーが凝縮されていたのです。そのことを知ってほしい」 一方、田中氏は、吉原文化を伝える際には、必ず「二つの事実」を併記するべきだと言う。 「吉原は、ありとあらゆる演出を駆使した演劇的空間であり、それを外の社会に伝えることを通じて、出版文化が花咲きました。世界に誇れる芸術である浮世絵がそこから生まれたことは事実です」 「それと同時に、借金に縛られた遊女たちがいなければ、遊郭は成り立たなかったことも事実です。幕府公認の遊郭で、幕府は“秩序の乱れ”は取り締まっても、遊女の人権は守りませんでした。明治時代になるまで、人権の概念は存在しなかったのです。人権思想がなかった時代の文化を、そのまま肯定的に受け入れることはできません」 「翻って、現代日本の格差社会で女性たちの人権は十分に守られているのでしょうか。『大吉原展』を機に、私自身、女性の人権について発信していきたい。本展が、日本文化の基盤となった稀有な空間について学ぶ機会になると同時に、問題意識を新たにするきっかけになればいいと願っています」
【Profile】
板倉 君枝(ニッポンドットコム) ITAKURA Kimie 出版社、新聞社勤務を経て、現在はニッポンドットコム編集部スタッフライター/エディター。