「『罪を憎んで人を憎まず』は真理」 波乱万丈、自身も逮捕経験のある女性弁護士がうったえる「加害者」との向き合い方
クウェートに侵攻したイラクに対して、アメリカ主導の多国籍軍が戦った「湾岸戦争」が始まった1991年、当時、小竹広子さんは浪人生活を送っていたが、反戦運動に身を投じる中で進む道を大きく変えた。 中学生のころは「海外の無医村で医療支援に携わりたい」と医者を志していたが、「ジャーナリストになりたい」と思うようになり、早稲田大学政治経済学部に進学。実家の事業失敗や出産など、紆余曲折を経た末に司法試験に合格した。 現在、産業カウンセラーや家族相談士の資格も持ち、刑事事件の被告人となった彼・彼女たちの弁護人を引き受けるだけでなく、カウンセリングの知識・手法を応用して社会復帰のサポートにも携わる。 罪を犯した人とも密に関わるなど、"普通の弁護士はあまりやらないこと"を続けてきた小竹さんは、自身の弁護士としてのスタイルをどのように築いてきたのだろうか。(取材・文/塚田恭子)
●通知書をきちんと見ず「京大合格」をふいに
大学を中退して結婚し、専業主婦になった母親から後押しされて、幼いころから「仕事を持って働きたい」と思っていた。 「高校時代は、分子生物学に興味があって、医学部か理学部か農学部のいずれかに進もうと思っていました。合格した医学部もあったのですが、学生運動に関心のあった私には(学生運動と)縁のないその大学に入学して、そのままに医者になるのはエリートぽくてどうかなあという、もっと裏街道な自己イメージがあって(笑)」 最初に進路変更したのは、京都大学医学部を目指して、京都で予備校に通った浪人時代だった。 「ろくに受験勉強もせず、労働組合の活動家や京大の学生と一緒に湾岸戦争反対運動や労働運動をしている間に読書傾向が変わったんです。(元朝日新聞記者の)本多勝一の本を読んで、自分もジャーナリストになろうと思い、早稲田大学の政治経済学部も受験しました」 実はこのとき、当初の志望校だった京大にも合格していた。 「ADHD(注意欠如・多動症)でおっちょこちょいの私は、数字がいっぱい並んでいる入試の結果通知書をよく見もしないままその紙を捨ててしまったんです。当時、『サンデー毎日』が毎年、東大・京大の全合格者名を誌面に掲載していたのですが、この号を見た中学時代の同級生から『京大に合格したんだね』と言われて自分の合格を知ったのは、その年の5月でした」 こうした経緯から、早稲田大学政治経済学部に進学して、複数のサークルで活動。天皇制反対のビラ撒きをしたことで、建造物侵入の現行犯で逮捕・勾留を経験する。 「早慶戦の天覧試合を前に、大学は学校を挙げて歓迎ムードでした。でも、天皇制は不平等だと感じていた私は、これはおかしいだろうと思っていて。そんなとき友人に誘われて、神宮球場前でビラ配りをして逮捕されました」 3日間の勾留後、釈放された小竹さんは国賠訴訟を提起する。弁護士という仕事に最初に興味を持ったのはこのときだった。 「私が思いつくままに話したことを書面にきれいにまとめ、こんなふうに理路整然とした主張にしてくれる弁護士さんってすごいな、と。逮捕後、弁護士もいいなと思い、司法試験の予備校に通いました。ただ、このときは途中でやめてしまって、司法試験を受けるには至りませんでした」