27年前に書かれた2075年の近未来日本と現代日本との酷似に屈服せずにいられない。ブレイディみかこが2024年の今こそ読むべきと断言する理由
波乱の時代から70年、紆余曲折を経て現在の日本では独裁主義でも民主主義でも、資本主義でも社会主義でもない極めて日本的なシステムが作り上げられた。あえて主義という言葉を使うなら、国家効率主義とでもいおうか。 ちょっと背筋がヒヤッとする文章ではないか。日本社会には、すでにその萌芽があちこちにある気がするからである。「タイパ」「コスパ」といった言葉の流行がまずそうだ。そして、何かと声高に叫ばれる「最適化」。「ハック」や「チート」だって、既存のシステムやその穴をいかにずるく利用して利益を上げるかということなので、「最適化」の一つであることに違いはない。 もともと日本は二大政党があって右へ左へと政権交代を繰り返してきた国ではない。ほんの短い例外期間を除けば、戦後は一つの政党が政権を担ってきたので、右派とか左派とかいう政治イデオロギーにも、一般の多くの人々は関心が薄い。右派と左派がネットでいつも喧嘩していたとしても、多数派の人々から見れば、どちらも「極端な考えを持つ変な人たち」でしかない。 資本主義、社会主義にしても同様である。戦後の日本は、企業が国になり代わって被雇用者に手厚い福利厚生を与えてきた「日本型社会主義」で驚異的な経済成長を遂げたと言われることもある。資本主義と社会主義が曖昧に混ざり合ってきた国なのだ。そんなところに、西洋式の右と左が両側から綱を引き合うイデオロギーの政治は根付かない。現代はSNSの影響で、政治イデオロギーの闘争が繰り広げられているように見えるが、これは狭い島宇宙の中での現象に過ぎないだろう。 ネットの外も含めた日本には、正義やイデオロギーよりも多くの人々に求められ、あまねく尊ばれる概念がある。それが効率性なのだ。 効率の良さを追求していけば、世の中の役に立たなくなった人間は社会から退場していかねばならなくなる。斎藤家の父親、総一郎は、コンピュータで代替されるようになった裁判官の職を追われ、専門職の超エリートだからこそのつぶしのきかなさが災いし、廃棄物扱いにされる。バリバリの家父長制では父親が社会の廃棄物にされると家族も同じ道を辿るしかない。それが崩壊に繋がっていくのだが、斎藤家と日本の行く末を変える人物が一人いる。