伊那谷楽園紀行(12)伊那谷へと至る人生の道程
それまで写真で見たり、テレビの向こうのものでしかなかった、雪に覆われたアルプスの山道を走り、アドリア海の風に吹かれながら考えた。これから、親の会社を継いで……会社も次第に大きくなっていく。それから、子供も生まれて……自分の人生は、どんな風に充実していくのだろうか。 夢のような時間は、あっという間に過ぎて現実が始まった。娘が生まれ、妻が神楽坂の路地裏に開いた靴工房も少しずつ軌道に乗っていった。その間、仕事の依頼があれば、どんな現場にでも出向いた。 原発、工事中のトンネル。捧は社長の椅子にふんぞりかえっているわけでもなく、昼は営業に走り回り、夕方からは現場に出向いて社員と共に汗を流した。けっして、手を抜いたりサボったりすることはない。仕事の依頼はいくらでもあるからと、エアコンの効いたオフィスでソファに腰掛けて、あれこれと現場に指示を出す。そんなことができるほど器用な性格ではなかった。 まったく手を抜いているつもりはないのに、不況の時代を迎えると、仕事は少しずつ減っていった。社員が一人減り、また一人減っていた2001年頃、大学時代の仲間から、学生劇団のOBが芝居をやると聞いて、様子を見にでかけた。気がついたら、自分も舞台に立っていた。後で聞いたのだが、学生劇団のOBによる伝統のアングラ演劇を見に来るのだから、この人もサークルのOBなのだろうと勘違いされていた。 21世紀になっても、寺山修司や唐十郎の影響を受けた演劇を至高と感じる劇団。舞台に立つのは気持ちよかったが、所詮は現実逃避に過ぎないと、どこか諦めのような境地があった。仕事の合間に練習に参加し、公演を終える。舞台でいくら気持ちよくなっても、一歩そこから降りれば待っているのは現実だった。 気がつけば、社員はいなくなり、自分ひとりだけになった会社と資材置き場にいると、不安に胸が曇った。帳簿を見ながら「いっそ自己破産をしたほうが楽になるかも知れない」とも思った。 「でも、自分が別にどんな仕事ができるだろうか……」 高遠の「さくらの湯」で『長野日報』を、手にしたのは、そんなふうに、新しい人生の扉を探していた時だった。