伊那谷楽園紀行(12)伊那谷へと至る人生の道程
研修を終えて、デザイン部での見習い生活。予定通り、10月にヤシカは吸収合併された。会社名は京セラになり、ヤシカはブランド名になった。コンタックスも、京セラの製品になった。上の方の役職者たちは、てんてこまいだったのだろうけど、新人の捧には、なにも関係がなかった。 ヤシカのデザイン部は、研修の時に、工場で指先が血まみれになるまで、組み立てをやらせるほど実学的だった。 「カッコよくデザインを描いたら、エンジニアが作ってくれるんじゃないのか」 塗装のやり方、金属の磨き方まで、徹底的にたたき込まれた上で、ようやくデザインの真似ごとをやらせて貰える。それでも、デザインを描いているだけの安楽な仕事にはならない。出来上がった図面を、別の部署にいる木工の職人に持っていく。 戦時中は潜水艦のスクリューの木型をつくっていたことを誇りにしている老練な職人に、おそるおそる図面を渡す。じっくりと図面を睨んだあと、職人はゆっくりと動き出す。木材をカンナで削っていくと、みるみるうちに図面に描かれた、カメラの形になっていく。 何度も頭を下げながら受け取って、デザイン部に持って帰ると、自分で塗装する。レンズの部分も加工して、実際にレンズをはめこむことが出来るように手を加える。「カメラのデザイナーの仕事は、大変なんだな」。どこのメーカーも、デザイナーは同じように苦労して模型を作っているのだろうと、捧は思っていた。 でも、キヤノンやニコンのような大手メーカーでは専門のモデラーの仕事だと、あとで知った。模型が出来上がったら、ダメ出しをされて、また一から作り直す。幾度も繰り返される作業。 「工業デザインというのは、自分で手を動かして……一番美しいものを最短距離で見つける仕事なんだろう」 20代の数年間で気づいた哲学が、博物館の展示に生かされることになるとは、まったく知るよしもなかった。 大学の後輩の妻とは、OBが集まる井の頭公園の花見で知り合った。テキスタイルデザインの仕事に満足できず「最後まで、自分でできる仕事をしたい」と、靴職人になった妻とは、魂が共鳴しているような気がして、一緒になることを決めた。 結婚もして、そろそろ30代の人生が始まる頃、急に父親の会社が魅力的に見えた。 父親は、自分の扱う工作機械に改良を加えて、特許を取得していた。その機械は便利だけれども、捧の目にはあまりにも無骨に見えた。捧のデザインした京セラTスコープは、海外で売れに売れていた。自分のデザインには、自信と活力がみなぎっていた。 もっと機械を美しくデザインしてあげたい。それに、仕事にも将来性がありそうだ。 このままカメラのデザインをするべきか、それとも……。これからの人生を考えていると、妻が魅力的な提案をしてきた。 東京都から、職人のための奨学金を得て、半年間ミラノで靴職人の学校に通うことが決まったのだ。 「なら、一緒に行こう。会社は……辞める」 即決して、7年間でサラリーマン生活を、終えた。わずかばかりの社員持ち株のおかげで、半年はミラノで暮らせる程度の金額が振り込まれた。 時にバブル景気の後半戦。ミラノに滞在している日本人は、やたらと多かった。箔を付けるために、ミラノに事務所を置くデザイナーも星の数ほどいた。声をかけると、30人しかいない大学の同級生の半分が集まることができる。それほどに、イタリアに楽しそうな日本人が溢れている時代だった。 当時、イタリアは日本人にとってある種の理想郷だった。オシャレな人々が、あくせく働くこともなく、選ばれた新鮮な素材を用いた手の込んだ食事を三食食べながら、のんびりと充実した人生をおくっている。 そんな憧れの地に限られた時間でも、住むことができる喜びを捧は感じていた。中古のランチア・ガンマのクーペを買って、ヨーロッパのあちこちを見て回った。青春期の最後の束縛から解き放たれた時間を、一分一秒でも楽しみたいと思うと、寝る時間も惜しかった。