伊那谷楽園紀行(12)伊那谷へと至る人生の道程
転機は大阪万博の頃。アメリカでコアボーリング というコンクリートに穴を開ける機械が発明されたと聞いた父親は、八方手を尽くして個人で輸入した。既に完成した建物の鉄筋コンクリートを思い通りに切断できる。丸く穴を開けるのも自在。 「これは、すごい」 なにか閃きがあったのか。父親は、自分でその仕事を請け負う会社を立ち上げた。ようやく、家族はひとつのところに落ち着いて暮らすことができた。 やがて棒が大学受験の年齢を迎えて選んだのは、美大だった。少年たちが、いつかは自分たちもと、街を走るスポーツカーに憧れていた時代。最初に魅せられた車は、いすゞ自動車の117クーペだった。乗用車の生産台数がトラックの数を追い抜き、一家に一台は車を持つ時代を迎えた1968年に117クーペは登場した。 イタリアのカロッツェリア・ギアのチーフデザイナーだったジョルジェット・ジウジアーロが、コンセプトからデザインまでを担った、イタリアンデザインの日本車。「イタリアには、そういう人がいて、車をデザインしているのか」。自分も、車をデザインしてみたいと思った。 度胸試しで受けた東京藝術大学は、とても受からず。いくつかの合格発表で落胆し、危機感を抱いていたところ、金沢美術大学から合格通知が届いた。合格した、美術学部工業デザイン学科で、青年らしく希望に満ちた大学生活が始まった。 文化の成熟した北陸の都市での大学生活。限られた時間の中で、思いつくかぎりのことはやりたいと思っていた。その道に進むつもりはなかったけれども、映画や演劇にも興味があった。おそるおそる、映画研究会の部室の扉を叩いた。 雑誌などで見るような、映画に命を賭けている議論、も激しいが喧嘩も強い、強面の先輩がたむろしているのではないかと思っていた。ところが、部室に集まる先輩たちは、学年の境目も曖昧で、和気藹々としていた。 70年代初頭までの政治の季節。学生運動の拠点となっていた映画研究会は、活動を禁止され部室も閉鎖されていた。それが、数年前にようやく再興されたばかりだった。「何年かぶりに部室の扉を開けたら、血まみれのヘルメットがいくつも出てきた」。そんな虚実ないまぜの話を、先輩たちは面白おかしく語るのだった。 和気藹々としている一方で、映画を撮る情熱には欠けていた。備品の8ミリカメラを取り出すのは、大学祭の時くらい。あとは、部員たちで連れだって映画を観にいくのがサークルの活動。 繁華街の香林坊には、10館近くの映画館が軒を連ねていた。映画が次第にテレビに客を奪われていると聞いていたが、金沢では、その実感はなかった。香林坊シネマビルの前に集まって、どの映画がよいだろうとワイワイと話し合った。オープン間もない金沢グランド劇場やグランドスカラ座は、デートコースに最適だった。 それは、青春の正しい姿だけれども、なにか物足りなかった。 「やはり作品を作りたい。そうだSF映画をやろう」 撮りたい意欲が湧いてくると、自然に「面白そうだな」と仲間も集まった。ちょうど『スーパーマン』がヒットしている頃。なにか自分もヒーローのようなものを登場させたいと思い『ロードマン』というヒーローを思いついた。 「スーパーマンは大空を高く飛ぶ。ロードマンは、地面を這うように飛ぶんだ」 素っ頓狂なアイデアに、仲間たちは爆笑し、映画は完成した。