伊那谷楽園紀行(12)伊那谷へと至る人生の道程
4年間のモラトリアムの後、大学院まで進んで追加で2年間。それでも、就職しなければならない時期はやってくる。選んだのはカメラメーカーのヤシカだった。 「やっぱり、一度は東京で働いてみたい」 8ミリカメラも製造していたヤシカには、なにか思い入れのようなものが生まれていたが、それが決定的な理由ではない。東京で働いてみたかった。漠然とやってみたかった車のデザインは、自分の求めるものには、そぐわないように見えた。 東京にデザイン部門を置いている自動車メーカーはない。それに、就職希望者向けの説明会へいけば、自動車メーカーには、とんでもなく上手いやつらが集まっている。車は自分には無理だろう。でも、カメラメーカーなら自分の才能でも、やりきれるかもしれない。コンタックスは、愛用しているし、なによりヤシカは田園調布と原宿に社屋を持っている。 卒業を翌年に控えた夏、さほど苦労することもなく内定を貰った。 いよいよ、自分がデザイナーとして活躍できるのか。1983年3月31日。入社を翌日に控え、ヤシカの新入社員は新宿駅から、あずさに乗って、白樺湖畔の山荘に集められた。 しばらくは、ここで社会人としての基礎を学び、岡谷にある工場で組み立て作業なども体験する。指導にあたる社員から、簡単に予定を聞かされて、その日は解散となった。ロビーに集まって、それぞれに自己紹介しながら、思い思いに、明日に備えてしばしの休息をとっていた。 夕方、ここの食事は美味しいのだろうかと、たわいもない会話をしていると、ニュースのテロップに、明日から自分たちが何十年も働くことになるだろう会社の名前が表示された。 今年10月をめどに、京セラがヤシカを吸収合併すると発表。 「聞いてないぞ!」 顔を真っ赤にして叫ぶ社員もいた。それでも、たいていの社員は、明日から入社する後輩たちを不安にさせないように懸命に努めていた。 「なんで、寿司屋と合併するんだ……?」 まだ、東証一部に上場してから十年足らず。一般消費者向けの製品を製造していない京セラの知名度は低く、持ち帰り寿司の京樽と勘違いしている者も少なからずいた。 これから会社がどうなるか、まったくわからないまま、研修がはじまった。 「おそらく、入社式の時にマスコミが押しかけてくるだろう。なにも喋ってはいけない」 研修前に、一言だけ注意された。でも、なにもわからないのだから、レポーターにマイクを向けられても、あーとかうーと、うなるだけの自分の姿が頭に浮かんだ。