「武者小路実篤」が私財をつぎ込んだ“理想郷”が「限界集落」に…残った村民は3人だけで「現状維持が精いっぱい」
第1回【“奔放すぎる妻”が次々に若い男と「恋仲」に…文豪・武者小路実篤の理想郷「新しき村」で女たちが織り成した“複雑な人間関係”】からの続き 【写真を見る】「限界集落」化した2024年の「新しき村」…建物は老朽化が進み、草地が目立っている 「仲よき事は美しき哉」の言葉などで広く知られる武者小路実篤。彼が残した「村」をご存じだろうか。「万人が調和して暮らす理想郷」を目指した「新しき村」である。1918年に宮崎県児湯郡で開村したものの、1939年にダム建設の影響で大部分が埼玉県入間郡に移転。戦争を経て現在まで続くその過程には紆余曲折があった。 ジャーナリストの菊地正憲氏は2006年、村民が20数名に減少していた村を取材。実篤存命時の一風変わった人間関係等を解き明かした。それから18年、村はどう変わったのか。今年7月、菊地氏は再び村を訪れた――。 ***
時間は止まっていなかった
「どこまでも静謐」で「時間が止まっている」ような感覚。最初に訪れた際にはそんな感想を抱き、実際に記事にもそう書いたものだった。今回も静けさはそのままだったが、時間の方は止まってはいなかった。やや寂しげな時の移ろいを痛感せざるを得なかったのだ。 今年7月下旬、埼玉県毛呂山町葛貫の「新しき村」に、2006年の取材以来18年ぶりに訪れた。JR八高線毛呂駅から県道沿いに20分ほど歩く。踏切を渡って雑木林を抜けると、「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」と白字で書かれた木の標柱が見えてきた。 猛暑日のセミの声は耳をつんざくほどだが、それ以外の音は聞こえてこない。周囲には深緑の茶畑と草地が広がっている。その合間にはいくつかの建物が見える。俳句にもなりそうな田園風景はほとんど変わっていない。 「お暑いところ大変でしたね」 声をかけてくれたのは、この村に1977年から住んでいるという吉原民雄さん(75)だ。鹿児島県に生まれ、20代のころ、大阪や東京、北海道で、飲食店の店員や不動産業といったさまざまな職を経た後、29歳のときに村に入った。 「大学を中退し、仕事をしてもなかなかうまくいかずに落ち込んでいました。そんなときに、たまたま新聞の記事で先生の村のことを知り、暮らし方が自分に合っていると思いました。心にゆとりを持てるかな、と思って。先生の考え方に感銘を受けたのです。すぐに都内のアパートを引き払って、入村を決めました。来てみたら居心地がとてもよかったのです。村全体が寛容で、ストレスを感じることがない。ほかの住民とも大きな摩擦はありませんでした。今も村を離れるつもりはありません」