「武者小路実篤」が私財をつぎ込んだ“理想郷”が「限界集落」に…残った村民は3人だけで「現状維持が精いっぱい」
農業を中心にした自給自足に近い暮らし
ここで吉原さんが呼ぶ「先生」とは、「友情」「お目出たき人」の小説で知られる文豪・武者小路実篤のことだ。その実篤が人々の共生と自活を実現するための共同体「新しき村」を創ったのは戦前の1939(昭和14)年。人道主義や理想主義を掲げた文壇流派「白樺派」の創設者として、実践的に理想郷を建設するためだった。 以来、同志である村民は、過重な労働負担を避け、残りの時間を自己実現に充てるため1日6時間だけ労働し、農業を中心にした自給自足に近い暮らしを送ってきた。 実篤は最初、1918(大正)年に宮崎県内に同じ村を創設していたのだが、ダム建設計画が持ち上がり21年後に急遽、「東の村」として毛呂山に新たに建設した経緯がある。前述の標柱の言葉も、建設当時の実篤自身の決意を示したものだ。4000坪から始まった「東の村」の面積は拡大を続け、今では約8倍の3万坪強に及んでいる。 実篤自身が実際に住んだのは宮崎の村での6年間に過ぎなかったが、外部からの積極的な支援は続けた。宮崎県の村は規模こそ小さくなったが、その後も存続している。いずれの村でも、住人である村内会員のほか、村には住んでいないものの、趣旨に賛同して支援する村外会員がいる。村外会員は現在160人ほどだ。毛呂山の村は一般財団法人になっているが、寄付を集めやすくするなどの理由で公益法人化を目指しているという。
かつて年間3億円だった農業収入が…
自分が入村したころについて語る吉原さんは、穏やかな笑顔を絶やさない。だが、村の近況に言い及ぶと、あまり芳しくないといった表情になった。私が以前に取材した時にはまだ20人以上いた住民は今、吉原さんに加えて40代と50代の男性2人の計3人に減ったという。その時の取材で話を聞いた住民も、既に鬼籍に入っていると教えてくれた。 「この十数年で村は大きく変わりました。高齢化が進み、離村が相次いで、どんどん人が減っていった。新たに入村する人もいない。主要な収入源だった養鶏場も、卵価下落のあおりを受けて立ち行かなくなりました。有機農法で栽培した野菜類やコメ、シイタケも今はほとんど収穫が上がらなくなりました。一時期、太陽光パネルを設置して収入を得ようとしたのですが、うまくいきませんでした」 自給自足とはいっても、光熱費などの費用はかかるし、生活用品などを購入するため外部にも買い物に行かなければならない。現金収入は必須なのだ。農業収入はかつて年間約3億円もあり、その大半を占める養鶏業は、前回の訪問時でも村の中心的な存在だと聞いていたのだが、十年ほど前に閉鎖してしまったという。