米国人にそっぽを向かれた残念な欧州車 文化の違いが生んだ悲劇 22選
マイバッハ
ベントレーやロールス・ロイスのブランドを買収したドイツの主要ライバルに遅れを取ったダイムラーは、超高級車市場に参入するためにロングホイールベースのマイバッハ57とさらにロングな62を投入した。21世紀初頭に生産開始し、2013年に頓挫した。 米国でのマイバッハの運命は、他の地域と同様だった。総人口の100万分の1にも満たない200台を売ることすら至難の業だった。ロールス・ロイスはそれをいとも簡単にやってのけ、マイバッハの消滅後もずっと米国での存在感を高め続けてきた。現在、マイバッハは再び体制を整え、SクラスやGLSに加えて、初のEVであるEQS SUVを導入するなど勢力拡大の機会を狙っている。
メルセデス・ベンツBクラス
第2世代のBクラスは米国ではEVとしてしか販売されなかったため、当初から大量に売れるチャンスはなかった。しかし、それだけではない。Bクラスは、年間2万台以上のペースで売れている他のEVに対してさえ、良い結果を残せなかったのだ。Bクラスが年間1000台の壁を突破したのは一度だけで、それ以降は一度も突破することはなかった。公称航続距離がわずか140kmだったことも、販売不振の一因だったかもしれない。
メルクールXR4Ti
ドイツのカルマンがフォード・シエラをベースに改良・生産し、米国ではピントシリーズの2.3Lエンジン「リマ」を搭載して販売されたモデル。その外観は、シエラに見慣れた欧州ならまだしも、米国ではいささか奇抜に見えた。また、「メルクール(Merkur)」というドイツ語のブランド名に関する問題もあり、英語ではうまく発音しにくかった。 販売台数については資料によって異なるが、1985年から1989年のモデルイヤーで5万台以下だったようだ。
プリムス・クリケット
プリムス・クリケットは、欧州で販売されていたヒルマン・アベンジャーの改良版だ。クライスラーが1967年に英国のルーツ・グループを買収し、当時ヒルマンから販売されていた後輪駆動の小型セダンを、名前を変えて米国に持ち込んだのだ。 1970年、クリケットは米国に導入されたが、国内生産ではなかったこともあり、消費者の反応は冷ややかだった。1971年の販売台数は、ライバルのシボレー・ヴェガやフォード・ピントの10分の1程度にとどまり、わずか2年で廃止されてしまった。