「せめて遺族に生前のほほ笑みを」犠牲者300人を復元した「おくりびと」は、仕事を投げ打って能登へ向かった ボランティアが示す「覚悟」
1月6日、岩手県北上市に住む納棺師、笹原留似子さんのところに一本の電話が入った。 【写真】東日本大震災当時の遺体安置所 ある歯科医が独力で作った照合ソフトが、身元確認に大きく貢献した
「先生ですか?」 電話をかけてきたのは、あるセミナーの受講生だ。笹原さんは、2011年の東日本大震災で、300人以上の遺体をボランティアで修復した。昨年、実施したセミナーでは、葬儀関係者に遺体の顔色などを手直しする技術や、遺族の気持ちに配慮した対応方法を教えていた。 この受講生は石川県在住。1月1日の能登半島地震で自分も被災したが、現地の遺体安置所で支援活動に入るという。「手が足りていないんです。どうか来てくれませんか?」 答えにつまった。「いつかは現地へ」と考えていたが、被災状況からしてまだ早いと感じていた。自営業のため、スケジュールの調整なども必要だ。それでも、「…どうしても入れませんか」と懇請された時、覚悟を決めた。 それぞれの技術や経験を生かして活動する災害ボランティアは、時に危険と隣り合わせの過酷な現場へ駆け付ける。根底にあるのは「自分を必要としてくれるなら行く」という思い。笹原さんを現地で待っていたのは、思いがけない出会いだった。(共同通信=山口恵)
▽「自己完結し、二次被害を出さない」 3日後の9日、車2台に分かれ、仲間と計4人で出発した。同行したのは元消防職員で笹原さんの会社で働く三浦智昭さんらで、みな災害対策の経験や知識は豊富。トランクには、遺体の修復に欠かせない特製のファンデーションといったメイク道具や脱脂綿、テーピングなどをたくさん詰め込んだ。さらに、飲料水や食事など、身の回りのものもすべて持参した。「自己完結し、二次被害を出さない」ためだ。 近づくにつれ、「今までの災害とは全然違う」と感じた。 道路は地割れで大きく穴が開き、脱輪の危険と隣り合わせ。あちこちで土砂崩れも起きている。さらに、雪が降れば道路の状態が全く分からなくなり、身動きが取れなくなる。休憩を取りながら慎重に進んだ。 東日本大震災でも道路の寸断はあったが、「ここまでひどくなかった。半島の地形がこうさせているのか…」 車は、いたるところが隆起してがたがたになった道を走った。細い迂回路を通り、渋滞を抜け、目的地である石川県珠洲市の遺体安置所に到着したのは、翌日の昼過ぎ。ここは行政から「手つかずだから、入ってほしい」と頼まれていた安置所だ。