藤原道長の政治の道具にされた『源氏物語』! 天皇を熱中させた紫式部の筆力
NHK大河ドラマ『光る君へ』第29回では、定子を失ったききょう/清少納言(ファーストサマーウイカ)が『枕草子』をまひろ/紫式部(吉高由里子)に読ませる。「皇后(定子)様の影の部分も書いたほうがよいのでは」と感想を述べるまひろに、ききょうが「皇后様に影などはございません」と返し、二人の対立のはじまりを思わせた。その後、『枕草子』は伊周(三浦翔平)に献上され、文学作品が政治の道具となっていく有様が描かれる。そして、まひろも創作をはじめる…という展開につながっていくのだが、実際のところ、『源氏物語』はどのように政治利用されたのだろうか? ■道長はどのように『源氏物語』を利用したのか? 史実においても、紫式部の夫・宣孝は結婚の翌年にこの世を去る。そして、その哀しみを紛らわすかのように書き始めたのが、『源氏物語』とされている。当初は、身近な人にだけ見せて批評し合っていたものの、次第に評判となって、とうとう道長の耳にまでその名が知られるようになったという。 ただし道長は、単にこの物語を楽しんだだけではない。自らの権力闘争の道具の一つにしようと考えたのである。ここではその経緯について、振り返ってみることにしたい。 道長が最も重要視するものといえば、いうまでもなく自身を中心とした一族の繁栄である。紫式部が宮仕えを始めたのも、元はと言えば、それを実現するためであった。 道長の権力奪取の途上にあたる995年へと時計の針を巻き戻してみよう。この年の大きな出来事といえば、道長の兄・道隆と道兼が相次いで急死したことである。兄たちの死によって、思いもかけず末っ子の道長に権力の座が飛び込んできたという、彼にとっての記念すべき年だったと言い換えることができそうだ。 ■定子にぞっこんだった一条天皇を、どうにか彰子のもとへ呼ぼうとした その後も、ライバルというべき中関白家の伊周との抗争が続くものの、伊周自身が事件(996年の長徳事件)を起こして自滅してしまったことで、道長もつかの間の安らぎを覚えたに違いない。 ところが、伊周の妹・定子が第一皇子である敦康親王を生んだ(999年)ことで、道長が焦り始めた。せっかく棚からぼたもち式に転がり込んできた権力の座が、再び中関白家に奪われてしまわないか危惧し始めたからである。ここは何としても、入内させていた彰子に皇子を生んでもらわなければならない……との強迫観念にかられていた。 そのためには、いうまでもなく一条天皇に彰子の元へと通ってもらう必要があった。道長の計略とは、紫式部が著し始めていた『源氏物語』を彰子の元で書かせるというものである。物語を一条天皇にも読ませて興味を抱かせ、その続きを読むために足しげく通ってもらおうとの魂胆であった。 もともと一条天皇は、人柄も容貌も優れた道隆の長女・定子にぞっこんで、老獪な道長を警戒してか、その長女・彰子の元にはなかなか寄り付こうとしなかった。そのため、一条天皇と彰子の逢瀬を手引きするものとして、『源氏物語』が選ばれたのである。
藤井勝彦