家康支持の流れを作った山内一豊の「貪欲」さ
■秀次事件における前野長康との対応の違い 一豊は秀吉の直臣としての経歴は古く、数少ない豊臣譜代とも言える存在でした。1576年頃から仕えて、数々の武功を挙げていたものの、秀次の与力とされたことで、豊臣政権の中枢からは外れます。 一豊は地道に小田原征伐では副将を、九戸政実の乱では総大将を任された秀次を支えていきます。一方で政務面でも、滞りがないように支援しています。そして、秀次が関白を秀吉から譲られた事で、宿老という地位の意味合いに変化が起きます。仮に関白秀次による政権が実現すれば、枢要な地位に就くことが期待できる状況になりました。 しかし、嫡子秀頼(ひでより)の誕生があり、それに連動するかのように秀次事件が起こり、一転して苦しい立場に置かれてしまいます。同じ秀次の宿老で、古参でもある前野長康(まえのながやす)は秀次を弁護し、後に切腹しています。 一豊も長康と同様に秀次の与力でしたが、秀吉の使者へ立場を変える事で、事件への連座を逃れています。 秀次事件によって一時は危うい立場に置かれましたが、一豊は地位向上のために「貪欲」に行動していきます。 ■一豊の「貪欲」さが残した財政難 一豊は豊臣家の古参譜代家臣として、徳川家の抑え役という意味も含めて、遠江国(とおとうみのくに)掛川に配されていました。この立場を活用して、伏見と江戸を往復する家康を接待し、鷹狩りの要望にも応じるなど、積極的に徳川家との関係性の強化を図っています。 そして、関ヶ原の戦いの前夜の軍議では、福島正則(ふくしままさのり)に続いて「掛川城と兵糧を自由に使ってほしい」と表明しています。これは家康への心証を意識した行動である一方で、軍議において家康支持の流れを作ったと言われています。 ただし、本来この案は堀尾忠氏(ほりおただうじ)の案を盗用したもので、後に忠氏が「日ごろのあなたには見えない行動だ」と笑って許したという逸話があります。戦後、堀尾家も出雲国松江24万石を得ています。 こうして関ヶ原の戦いでの活躍で土佐一国を得て、国主大名への逆転に成功します。 さらに一豊は国主大名では満足せず、四国一の国主大名となるために、2倍以上の高直しを申請するという「貪欲」さを示します。長宗我部(ちょうそかべ)家時代に9万8000石ほどだった石高を倍以上の20万2600石として申請し、阿波国の国主大名である蜂須賀(はちすか)家より上位になろうとしました。 しかし、この高直しの結果、公儀への大幅な負担の増加もあり、加重な賦役で領民を苦しめることになります。 跡を継いだ二代目藩主忠義(ただよし)は、野中兼山(のなかけんざん)を登用して財政改革を行います。この改革は領民にも藩士にも過酷なものだったようで、兼山は藩内の恨みを一身に背負うことになり、家族も含めて不幸な結末を迎えてしまいました。 ■「貪欲」に手に入れた一方で失うもの 一豊は戦国武将として立身出世のために「貪欲」に行動し、最終的には土佐一国の国主大名にまで上り詰めます。 しかし、その後に徳川家に権力が移り、大恩ある豊臣家が滅ぼされてしまった点が、後世のイメージに影響したと思われます。 現代でも、出世のために「貪欲」に仕事に取り組んで地位を極めていくものの、その過程で犠牲にしたもののために、悪い印象を与えてしまうことは多々見られます。 もし、一豊が大恩ある豊臣家に対して、関ヶ原の戦い後に何か支援したエピソードが残っていれば、またイメージが違ったものになったかもしれません。 ちなみに、二代目藩主の忠義にも「貪欲」さは引き継がれ、1615年に徳島藩が加増により25万7000石となると、四国一に固執し、25万7000余石という微妙な数値で申請し、幕府に却下されています。
森岡 健司