「300年続いた酒蔵を福島原発事故で失った」再建の地はまさかのシアトル、12年ぶりの酒は完売した
酒米を蒸す湯気を杜氏の冨沢周平さん(70)がじっと見ていた。2022年6月、米シアトル近郊ウッディンビル。東京電力福島第1原発事故による避難から約11年ぶりに自分の蔵で酒造りに臨む父の姿に長男守さん(41)は感慨無量だった。 半年後に試飲バーをオープン。日本酒「SHIRAFUJI」の販売を開始した。1周年を迎えた昨年12月、常連客が大勢で祝ってくれた。「来てくれてありがとう」「おいしい」。米国人のストレートな表現が店を切り盛りする長女真理さん(40)を元気にする。 2011年3月11日、福島県双葉町の「冨沢酒造店」で作業中の周平さんと守さんを東日本大震災の大地震が襲った。翌12日、真理さんは蔵の敷地で爆発音を聞いた。やがて屋根に砂の雨が降った。夜、自衛隊員から約3・5キロ離れた原発の爆発を告げられ15分で支度し双葉町から避難した。 「先祖代々続いた酒蔵を捨てた」 いわき市の避難先で自分を責め、やつれていく周平さん。心配する守さんと真理さんは父に再び酒造りをさせると決意した。 国内で再起するには困難な条件が山積みだった。焦りと疲労が蓄積した頃、物産展関係者に誘われ訪れたシアトルで真理さんの心が動いた。東北に似た気候に水もいい。ここなら酒造りができるかもしれない―。 江戸時代から300年以上続いた酒蔵への愛着は言い表せない。だが、古里へ帰還できるめどは立たない。異国の生活に不安要素も多い。しかし「自分たちの酒造り」ができる可能性があった。一家で話し合いを重ね「ゼロから出発しよう」と14年、米国に渡った。 文化やルールの違いに戸惑いの連続だった。当初の酒蔵予定地は酒造制限区域だった。ライセンス、ビザ取得手続きや物件探し、家族の体調不良で周平さんや守さんが日本に一時帰国した間も真理さんは米国で動き続けた。元ワイナリーの物件を契約した時、移住から5年以上経過していた。 本格的な準備を妨げるように新型コロナ禍が米国社会の動きを止めた。だが、地元の設計士と立派な酒蔵をつくり上げ、家業再開にこぎ付けた。 かつての味の再現は難しい。酒の命、こうじは温度管理するため定期的な手入れが必要だが夜間は規則で建物に立ち入れず戸惑う。アーカンソー州産の酒米や発酵を促す力が強い水の特徴をつかむため周平さんは作業の記録を付ける。 昨年造った酒は完売した。しかし、生産量は双葉時代の100分の1だ。米国内の販売と日本の支援者への送付で在庫が尽きた。今は親子3人それで手いっぱいだ。いずれは杜氏を育てたい。 元日の能登半島地震は人ごとではなかった。一部商品の売り上げの50%を寄付すると決めた。人を思いやり行動に移せるようになり幸せを感じる。苦闘の13年、ようやく今がスタート地点だ。「シアトルの地酒になります」。親子は大きな夢を胸に酒を造る。
共同通信社