巨大津波に何度も襲われた島が、東日本大震災後に見せた底力 人口減り続ける宮城・浦戸諸島 島民の思い、若い世代が受け継ぐ
絆をつむぐ島 東日本大震災から13年
降りしきる雪の中、家屋や船が濁流をさまよう―。2011年3月の東日本大震災。「自然の猛威を伝える写真」として多くの人の目に留まったその1枚は、宮城県塩釜市の浦戸諸島・野々島で撮影された。13年前、この一帯は最大8㍍超の津波に襲われたが、島は過去にも幾度となく津波に見舞われている。島の人々は震災を教訓にどんな将来を描いているのか。記憶の伝承が課題となる中、2011年当時は大学生だったカメラマンが、この1枚の写真を手がかりに現場を歩いた。 ▽変わる風景 「家がねじ切られるのを、今も夢で見るんだ」。野々島の消防団員だった遠藤勝さん(60)は震災当時、家々から住民を連れ出し津波を背に必死で走った。転びながら高台に駆け上がると雪が降り出し、眼下で家屋が濁流にのまれていた。 写真が撮影された桟橋付近は現在、舗装され無機質な灰色の地面が広がる。立ち並んでいた住宅は流され、島の地形があらわになっている。あちこちに空き地ができ、人影もまばらだ。 ▽固い絆 浦戸諸島で人口が最も多い桂島に向かった。漁業などの就労支援施設で働く内海信吉さん(64)は「(島民は)何をするにも一緒だった」と話す。誰かが家を建てれば本州から船で資材を運ぶ。狭い島ゆえ、家族のような絆が生活を支えた。 震災発生時も「誰がどこにいるか把握できていた」。消防団員は歩行困難な住民を優先的に搬送し、半数が高齢者でも全員無事だった。避難所では各自が食料や燃料を持ち寄り、炊き出しやトイレ掃除を分担した。 だが家や船を失い、住民の多くは島を去った。震災直前、浦戸全体で589人いた人口は半分以下に。「つながりが深かった。それが無くなるのは嫌なんです」。内海さんの顔が曇った。 ▽未来へ紡ぐ 早朝、船で野々島に通う子どもから「おはようございます!」と元気な声が響く。地域で唯一の浦戸小中学校は38人の全児童生徒が島外出身だ。 「若者がいないと地域は終わる」。約20年前、少子化を危惧した遠藤さんや内海さんらが、学校存続を求め行政に掛け合った。協議の末、学区外の受け入れを開始。島在住の子は2023年度はゼロだが、豊かな自然や少人数授業が魅力となり、越境入学希望が絶えない。 カキむき体験など島の文化を学ぶ生徒児童に加え、地域おこし協力隊として漁業を担おうとする移住者もいる。島民たちの思いは受け継がれていく。 「若い世代が俺たちの伝えたことを覚えていてくれたら」 震災で風景は一変し、人は離れていく。それでも島の記憶を紡ぐ人々の姿に、地域の底力を感じた。 (取材・記事:小向英孝)
共同通信社