お客様からかけられた「あなたここの社員?」この言葉で人生が変わった コロナ禍からV字回復を果たし、花で人を幸せにし続けている秘訣とは
清水の舞台から飛び降りるつもりで借金をして大改修
報酬制度や入園料などの次に取り組んだのは、園の施設や花畑の大規模な改修だ。生まれて初めて数千万円の借金をして、一気にさまざまな手を打っていった。 まずは長らく仮設だったトイレの建て替え。若い女性やファミリーにも気持ちよく安心して使ってもらえるようにし、授乳室やオムツ替えシート、車いす利用もできるようにした。 また、さまざまな客層のお客さんに喜んでもらえるよう、花畑の植栽面積を増やした。当時は珍しい花で、農園の誰も生育経験がないダリアの植え付けにチャレンジ。 1年目は台風の影響もあり大失敗だったが、そのときの教訓を生かして取り組んだ2年目には、当時のひまわりまつりとほぼ同じ2万5,000人のお客さんに楽しんでもらえた。 この頃、農園の名前も変える。 地域の名前を入れたいと思っていたところ「世羅高原」という通称が観光地のイメージとして定着し始めていたこと、そして、農業の開拓精神的なところを忘れてはいけない、という思いから「世羅高原農場」という名前にした。 代表になってわずか数年。20代で初めて数千万円もの借金をするのは、とんでもなく勇気のいることだったろう。 こわかったのでは?と質問すると「それはこわかったですよ。もともと大きく利益を出していたわけではなかったですし」と返ってきた。 例えば、工場で物を作って売る場合は「〇個作れるから、売り上げを〇円くらい伸ばせる」と具体的に見通しを立てられる。しかし、農業と観光は自然も関わってくることのため、お金をかけた分だけ返ってくるという保障はなく、リスクが高い。 「だけど、とにかくお客さんに喜んでいただく、満足していただく、ファンになっていただくということでしか、そのリスクを埋めることはできないので。社名も変更し、今後は地域の魅力を打ち出していく、ということで覚悟を決めましたね」 金融機関も「若い代表が『やりたい』と言っているけど大丈夫か?」と不安を見せていたそうだが、融資してくれたのは「どうしてもやりたいのでお願いします!頑張ります!」と訴える吉宗さんの熱意と覚悟が通じたからかもしれない。 代表に就任して数年、次々と改革をしてきた吉宗さんだが、新たな試みに異を唱えるメンバーも少なからずおり、すんなり進められたものはひとつもなかった。 だが、吉宗さんが大胆に、そして地道に続けてきたことが、入場者数の増加や売り上げ数など、成果が数字として目に見えるようになってくると、吉宗さんの提案に対して社内も「じゃ、やってみようや」というポジティブな流れになっていく。 【花はみんなをしあわせにする】という方向性に向かって、少しずつ農場がひとつになっていった。