【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉 】苦しいことに直面したときは「受け身」であれ
89歳にしてメイクアップアーティストであり現役美容家としてふたつの会社を経営。戦前に東京で生まれた小林照子さんは、両親と2歳上の兄、年子の妹という5人家族だったが、3歳のときに両親が離婚。その後の照子さんの考え方に影響を与えたようだ。
人生、予測もつかないことが起こるもの
「私は1935年(昭和10年)、現在の東京都練馬区で3人兄妹の2番目として生まれました。父・小川市太郎は日本橋で証券会社を経営。母・トシコは看護師や助産師をしていました。 私の1歳下、年子となる妹・よしこが生まれた頃までは、とても穏やかで幸せな日々が流れていました。 しかし、私が3歳のときに両親が離婚しました。理由は確かなことはわかりませんが、父も母も『相手に何かしてあげたい人』であったことが原因のひとつだったと、後に母から聞きました。でもそのタイプが違うんですね。 父は証券会社の社長であり、とても弁が立ち、相手を喜ばせることに長けていたと聞いています。わがままなことでもなんでもかなえてあげたいと思っているようなタイプ。母のほうも『人のため』ばかりを考える、まさに慈愛の塊のような人でした。 例えば、父が『何を食べたいか?』 と聞いても、母はもともと質素な人で自分の好みよりも相手に合わせたいと思い、主張はしません」 わがままを言われたいお父さまと、わがままの言えないお母さま。
「実際、父はその後、再婚するのですが、そのお相手の方はとても美意識が高く、気が強くわがままなタイプでした。その方が亡くなったあと、形見分けがされたのですが、高価そうな着物や指輪がたくさんありました。 私はその中で、翡翠などの帯留めを6つもらいました。今日つけている指輪はそのひとつをリメイクしたものです。たぶん、かなり高価なものだと思います。母が持っていたアクセサリーは小さな真珠の指輪ひとつだったのですが…」 妹が生まれて程なくして、お父さまの帰りが遅くなるようになったそう。 「ある日、まだ1歳の私がぐずって、父があやしても泣きやまないことがあり、イライラした父は私を布団の上にボンと荒っぽく突き落としたそうです。 『あんなことをするような人じゃないのだけれど…』と、母が話してくれたことがあります。ひょっとすると父はその頃、母と、後に再婚する人との間で心が揺れ動いていたのかもしれませんね。そんなもどかしさから、つい感情的になったのでは?と…。 人生は予測もつかないこと、理不尽なことが起こることもあります。苦しいことに直面したときは『受け身』であることが大切です。自分が何かを学ぶために与えられた試練、学びの時間なのだと思うことです。 もちろん当時、私はまだ子どもでしたから、そのように悟っていたわけではありません。今、自分の人生を振り返ってみると、この両親の離婚が私の波乱万丈の人生の始まりだったのかもしれませんね」