「新潮文庫」の謎 なぜ、名作・傑作がそろっているのか ヒットの軌跡・新潮文庫(上)
名作・傑作が集まった事情
新潮文庫から最初の文庫版が出た有名な小説のうち、「単行本は別の出版社から出ていたケースは少なくない」(佐々木氏)。例えば、太宰治の『人間失格』は1948年に筑摩書房から単行本が出た。三島由紀夫の『仮面の告白』は1949年に河出書房(当時)から出版された。担当編集者は音楽家・坂本龍一の父、坂本一亀だった。 自前の文庫レーベルを持っていなかったのであれば、新潮文庫から文庫版を出してもらい、対価を受け取るのは悪くない二次利用ビジネスだ。しかし、後から文庫レーベルを立ち上げた場合、単行本を出していた出版社が自社の文庫に収めたくなってもおかしくないだろう。 だが、そういう「古い文庫出版権の取り戻し」のような試みは珍しいそうだ。「いったん出た文庫版のタイトルに関して、単行本を出していた出版社が文庫化の権利を取り戻そうと試みるような動きは、新潮文庫に関してはあまり聞いたことがない」(佐々木氏)という。 だから、過去に新潮文庫が出したタイトルの多くは今も新潮文庫のリストにある。この長年の蓄積が新潮文庫の背骨となっている。日本文学史を彩る宝物のようなタイトル群は一種の「先行者利益」のような形で、新潮文庫を特別な高みに押し上げたといえるだろう。 昭和時代には「読書が趣味の学生が多かった」(佐々木氏)。彼らの読書欲を満たすようにタイトルを増やし続けた歩みが新潮文庫の財産となり、「文庫といえば新潮」といったブランドへの信頼感も育てていったようだ。 これまでに売れたタイトルは読み手が新潮文庫に抱くイメージを育ててきた。単独のタイトルで最も販売部数が多いのは『こころ』。優に700万部を超えている。 2位は『人間失格』、3位は『老人と海』。4位は『坊っちゃん』、5位は『異邦人』だ。国内と海外の名作小説がトップ5に3対2で同居していて、バランスのよさを印象付ける。もともと海外作品の全文翻訳から始まった新潮文庫らしくもある。 複数作品に及ぶシリーズ物では池波正太郎の『剣客商売』が圧倒的に多い。『ローマ人の物語』(塩野七生著)や『しゃばけ』(畠中恵著)、『十津川警部』シリーズ(西村京太郎著)なども上位に並んでいる。「大衆的な作品を扱うようになって、読み手の裾野が広がった」(佐々木氏)という歴史が感じ取れる。