「1週間、酒も競輪も誘わないでくれ」“元天才少年”が谷川浩司19歳との初対局前に…「医者はいつ死んでも、と」芹沢博文51歳の太く短い人生
昭和の将棋界には個性派・無頼派の棋士が数多かった。その中で51年という太く短い生涯を生きた“棋士になった天才少年”について、田丸昇九段が見た素顔を紹介する。〈全3回/文中敬称略・棋士の肩書は当時〉 【写真】「消えた天才少年棋士」51年の生涯や「か、かわいい…」パジャマ姿の藤井くん6歳、羽生さん畠田さん25歳“美しい和服結婚式”など棋士レア写真を見る 芹沢博文九段の異色の棋士人生をたどるシリーズの第3回は「酒仙編」。作家の山口瞳との交流、将棋を愛好した元首相の田中角栄から持ちかけられた政界への進出、B級1組順位戦で酒を断って臨んだ谷川浩司七段との対局、酒を愛した人生と長年の深酒による体調不良、死に際しての本心、などのエピソードについて紹介しよう。
「芹沢が天才だからではなく、将棋好きだから興味を」
将棋と棋士をこよなく愛した作家の山口瞳は、1970(昭和45)年から文芸誌で『血涙十番勝負』を連載し、一流棋士たちと駒落ちで対局した。プロ相手に懸命に戦って苦悩する様を率直に綴った自戦記は、読者の共感を呼んだ。 芹沢博文八段は当時、将棋連盟の広報担当のような立場だった。そのシリーズで棋士の人選、山口や編集部との交渉、対局での立会や解説を務めた。 山口は芹沢を気に入り、東京・国立の自宅によく呼んで酒を酌み交わした。文芸誌の自戦記では、芹沢について次のような内容で評した。 《頭の回転がおそろしく早い。麻雀は日本一、コイコイ(花札)は二番目に強いと自称している。酒も将棋界で一番だろう。将棋という勝負の世界では、こういう平手造酒のような人物がいたほうが面白い。僕が芹沢博文に興味を持つのは、彼が天才だからではなく、将棋好きだからだ。僕の家に遊びにきたときでも、駒落ちや平手で誰とでも気軽に指してくれる。小説を書く人間として、破滅型(彼は自滅型と称する)の男に惹かれたと思わないでほしい》 山口は芹沢を好意的に評した。そして中原誠・米長邦雄が昇級して抜けたB級1組で、芹沢より強い棋士はいないはずだと強調し、A級への復帰を切に願っていた。
将棋好きの田中角栄から…
芹沢と親交を持った人物には、昭和の歴史を作った政治家もいる。 1972年7月に新首相となった田中角栄である。 将棋を愛好した田中は就任後に中原誠新名人、同じ新潟県生まれで交流があった原田泰夫八段らを首相官邸を招き、彼らから六段の免状を贈呈された。自民党総裁選の頃には、中原は田中に自筆の扇子を贈ったこともある。表には「5五角」が書かれてあり、「ゴーゴー角(栄)」と応援する意味が込められていた。 田中首相は庶民的な出自から「今太閤」と呼ばれ、日中国交正常化を実現して支持率が高まった。しかし、74年に金脈問題が発覚して退陣に追い込まれ、76年にはロッキード事件で受託収賄罪の容疑で逮捕された。田中は政界の表舞台から退いたが、多数の田中派議員を擁して隠然たる影響力を及ぼしていた。
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