がれきの上に立つ血だらけの母、大八車に山積みの遺体…「初めて、絵を描くことが苦しかった」 福岡の美術学生がヒロシマとナガサキに向き合って抱いた平和への願い
広島、長崎で原爆に遭い生き残った人々がつくった最大の組織、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が今年のノーベル平和賞受賞者に選ばれた。時に痛ましい傷痕を見せながら、核兵器がつくり出した「地獄」を証言することを通じ、二度と核は使われてはならず、廃絶するべきだと訴え続けてきた努力がたたえられた。米軍による原爆投下から来年で80年。体験者はますます少なくなり、記憶と運動の継承がいっそう重い課題となっている。 【写真】腹痛で作業を休んだ自分は生き残り、同級生は全員亡くなった。 親友の母親にかけられた言葉に絶句「何で生きているの」。 被爆60年経て「伝えなくては」と決意、親友の遺品を前に広島で語り続ける
広島、長崎両県に次ぎ、被爆者健康手帳を持つ被爆者の数が全国で3番目に多い福岡県では、昨年、大学で美術を専攻する学生らが県内在住の被爆者から直接体験を聞き取り、絵画にして残す「被爆体験絵画プロジェクト」が始まった。「言葉では説明し尽くせない『あの日』を具体的に伝えたい」。被爆者の思いに応えたのは、広島や長崎の出身ではない若者たち。縁遠かった戦争を身近な問題として捉えるようになり、平和への願いを絵筆に込めた。(共同通信=水野立己、野口英里子) ※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。 ▽「娘の無事に安堵する母」どう描くか 6月中旬、九州産業大(福岡市)芸術学部のアトリエ。学生3人がイーゼルに立てかけられた縦53センチ、横約45センチのキャンバスに真剣な面持ちで向き合っていた。 がれきの上で、小さな女の子をやさしげな表情で見下ろすシャツとモンペ姿の女性。3年生の浦川結衣さん(22)は、広島で原爆に遭った森律子さん(85)の記憶を基に、筆に取った油絵の具を丁寧にキャンバスに載せた。
1945年8月6日朝、6歳だった森さんは爆心地から約1・5キロの自宅にいた。空襲から逃れるため、両親と兄、姉と共に東京から祖母のいる広島に引っ越してきたばかりだった。 爆風で2階建ての家は倒壊、父と祖母とともに下敷きになった。森さんと父は外に出られたが、祖母は重い柱に挟まれて身動きが取れないまま炎に焼かれた。学徒動員で外出していた姉は遺骨すら見つからなかった。住む場所を失った一家は戦後、親戚を頼って福岡に転居した。 森さんが絵の題材に選んだのは、がれきの上に這い上がった時に目に飛び込んできた母の姿だった。被爆時、母は屋外で洗濯物を干していた。頭や腕に無数のガラス片が突き刺さり、血を流しながら、娘の無事を知って安堵の表情を浮かべていた。普段とは違う「幽霊のような」さまが幼いまなこに焼き付いた。 依頼を受けた浦川さんは今年1月以降、SNSでメッセージをやりとりするだけではなく、喫茶店で落ち合って当時の服装や周囲の状況などを細かく確認し、家族の写真も見せてもらった。
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