がれきの上に立つ血だらけの母、大八車に山積みの遺体…「初めて、絵を描くことが苦しかった」 福岡の美術学生がヒロシマとナガサキに向き合って抱いた平和への願い
ロシアによるウクライナ侵攻などの報道に触れ、戦争が身近に感じることが増えた。「見た人が戦争について調べるきっかけになれば」。そんな願いも一筆一筆に込めた。 ▽擦り合わなかった20代のイメージと80代の記憶 煙のように立ち上り、家々を覆い尽くす不気味な色の物体-。3年生の東陽音(はるね)さん(21)がキャンバスの大半を埋めるように描いたのは、松本隆さん(89)が長崎への原爆投下直後、爆心地から約3・5キロで目撃した「きのこ雲」。松本さんが長い間、カラーの絵にできないかと切望してきた光景だ。 1945年8月9日、松本さんは父に頼まれ、国から配給されるたばこを受け取りに外出していた。予定より早く目的地に着いたため、大好きな蒸気機関車を見ようと国鉄の駅舎に入った瞬間、強い光に包まれた。 とっさに「伏せ」の姿勢を取り、しばらくして体を起こして空を見上げると、赤や黒、紫などの色をした雲のような何かが渦を巻きながらまざり合い自分の方に押し寄せてきた。「この世のものとは思えなかった」 松本さんは十数年前、インターネット上で、爆心地から約9キロで撮影されたきのこ雲の写真を見た。モノクロだったため、晴れわたる空に入道雲が立ち上る平穏な一日の情景に見えた。「死ぬ」。あの日、不気味な雲を見て本能的に抱いた恐怖を写真からは感じられなかった。
東さんは鹿児島県出身。修学旅行や学校の授業で証言を聞く機会はあったが、「感想文を書くために聞いていたような気がする」と振り返る。自ら描くとなって初めて真剣に当時を想像したが、映像として思い浮かべるのは難しかった。「ここはもっとどす黒い赤色だった」。提示したイメージと松本さんの記憶はなかなか擦り合わなかった。 2月、東さんは制作を共にする浦川さん、松野さんと長崎原爆資料館を訪問。原爆や戦後の核実験のきのこ雲などさまざまな雲を見ることができたが、松本さんが目撃したような、頭上に広がる雲の写真はなかった。「絶対に松本さんの体験を再現しないといけない」。自分の役割を再確認した。 ▽残せるものは、言葉だけじゃない 約4カ月かけ、三つの絵画は完成した。79年目の「原爆の日」を控えた7月31日、原爆被害者の会の事務所が入る福岡市の施設で関係者を集めてお披露目会が開かれた。作品に掛けられた白い布がめくられると、被爆者の3人はじっと見入った。「母の目元がそっくり。においまで伝わってくるよう」。森さんは涙ぐみ、浦川さんのそばに寄って感謝を伝えた。
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