「赤字だから仕方がない」 そんな“ローカル線廃止論者”に、私が微塵も同意できないワケ
合理化の進展と社会的責任
近年、赤字ローカル線の廃止を求める声がネット上で増えている。特に、2022年7月に国土交通省の有識者会議が示した「駅勢人口比駅利用者率1.5%未満」「駅利用者数100人未満」といった赤字路線の存廃基準が公表されて以降、この議論はさらに加速した。 【画像】「すげぇぇぇぇ!」これがJR東日本の「平均年収」です! 画像で見る(13枚) 「どう収支を改善するのか」 「移住以外に解決策はない」 「ノスタルジーに過ぎない」 といった声が目立つ。多くは採算性を重視し、収益が見込めない路線は速やかに廃止すべきだという立場だ。しかし、こうした経済的合理性に偏った考え方は、公共交通が本来担うべき役割や社会的責任を軽視していると言わざるを得ない。 この問題に対し、マックス・ウェーバー(1864~1920年)が提唱した「鉄の檻」という概念が示唆を与える。ウェーバーは、社会学や経済学の分野で活躍したドイツの学者で、近代社会学の創始者のひとりとして知られる。彼は社会の近代化や合理化について深く分析し、過度な合理性の追求がもたらす問題を指摘した。 ウェーバーによれば、合理化が進むと、社会は効率や収益性ばかりを追求し、人間らしさや公共性を見失う危険がある。この「鉄の檻」の概念は、赤字ローカル線の存廃問題にも当てはまる。合理性だけで廃止を進めることは、地域住民の生活や地方の持続可能性を損ない、公共交通が持つ社会的意義を否定することにつながるからだ。 赤字ローカル線の存続をめぐる議論は、単に採算の問題にとどまらない。地域社会の未来や公共交通の本質を見直すきっかけにもなる。数字や効率だけで結論を急ぐのではなく、その路線が地域や社会全体にどのような価値をもたらしているのか、広い視点で考える必要があるだろう。
経済性一辺倒の限界
赤字ローカル線の廃止を主張する声は、路線の価値を経済性というひとつの指標で判断しがちだ。例えば、JR東日本千葉支社が2024年11月に発表した久留里線の一部区間(久留里~上総亀山駅)の廃止も、利用者の少なさと赤字が主な理由とされている。 この区間では1日に17本の列車が運行されているが、平均利用客数は約60人にとどまる。さらに、運営にかかる費用を示す「営業係数」は1万3580円と非常に高い。地元との協議では 「移動需要に対して輸送力が過大」 との意見が示され、バス転換が提案された。このように、利用者が少なく運賃収入で経費をまかなえない路線は速やかに廃止すべきだという考え方だ。 この立場には、近代資本主義の基本理念が反映されている。限られた資源を効率的に配分し、赤字を続ける事業は社会全体に損失をもたらすという理論だ。しかし、「赤字だから即廃止」という単純な判断には疑問が残る。 数字だけで地域の価値を評価することは、近代化がもたらした問題のひとつを象徴している。公共交通の意義は単なる収益性にとどまらず、地域住民の生活や地方社会の持続可能性を支える役割も担っているはずだ。 この視点を無視した議論は、短期的な効率性を追求するあまり、長期的な地域社会の価値を見失うリスクをはらんでいる。