森永卓郎<60年のコレクター歴>のきっかけは小学校時代に。「海外の学校で差別され、引きこもる姿を見た父が…」
経済アナリストとして、テレビ・ラジオなど多くのメディアで活躍する森永卓郎さん。2023年末にがんであることを公表してからも、病気と闘いながら活動を続けています。森永さんは、がん宣告をきっかけに「自分の後始末は自分で」と、身の回りのモノの整理を始めたそう。今回は、森永さんの新著『身辺整理 ─ 死ぬまでにやること』から一部引用、再編集してお届けします。 【写真】1964年、アメリカに渡航する直前、羽田空港で。左が森永さん * * * * * * * ◆コレクター歴は60年 私は自他ともに認める「コレクター」だ。 コレクター歴は60年になる。集めに集めたコレクションについては、はなから捨てる気などない。 身辺整理の一環として私の死後もコレクションを残すための算段をきちんとつけておこうと考えた。 小学校に入る頃には祖父母からもらうこづかいを貯めては、おもちゃ狙いでグリコを買ったり、年に数回は、高価なミニカーを買ってもらったりしていた。 ただコレクター熱に火がついたのは海外へ行ってからだ。
◆海外で暮らしていた時期 毎日新聞社で記者をしていた父の仕事の関係で、私は小学1年生をボストン、4年生をウィーン、5年生をジュネーブで過ごした。 こういうと何やらカッコよく聞こえるかもしれないが、海外で暮らしていた時期は私の人生における黒歴史だ。 私がボストンへ渡ったのは1964年、日本人の海外渡航が自由化された最初の年だった。 この時は厳密に言うと、新聞社の仕事ではなく、マスメディアで働く人を対象にした留学生試験に父が合格し、ハーバード大学で学ぶための転居だった。 サラリーマン家庭である我が家が裕福だったはずもないのだが、父は、自費で家族全員を帯同した。 父は最後まで話さなかったのだが、そのとき相当な借金をしたはずだ。 だから小学3年生までの我が家はとても貧乏だった。
◆差別されて孤独だった小学校時代 私は学費の高い日本人学校ではなく、地域にある普通の公立学校へ入学したのだが、言葉が喋れなかったので誰ともコミュニケーションをとれず孤独だった。 そのうえ露骨な人種差別に直面した。 これはヨーロッパでもそうだが、白人社会では白人、黒人、その下に位置するのが黄色人種だ。 そのため私は全校生徒から汚いものでも見るような目で見下ろされ、鬼ごっこの時には捕まっても鬼にはならなかった。 なぜかというと、あれは捕まった人間が鬼になるゲームで、黄色人種は「人間ではない」と認識されているので、鬼にはなれないからだ。 だから、海外では、私はずっと孤独だった。 そんな私に唯一の友達ができたのが、小学4年生で転居したウィーンだった。 友達といっても、オーストリア人の友達ではない。 ウィーンの子供たちは、アメリカ人に輪をかけて日本人を差別した。 日本人がそれに気づかないのは、ドイツ語が十分できないからだ。 彼らは、微妙な表現で嫌がらせを言ってくる。京都人を100倍閉鎖的にしたのが、ウィーンの子供たちだった。当然、友達なんてできるはずがない。
◆ミニカーコレクション ただ、ウィーンへの渡航は父の「仕事」だった。 当時はよい時代で、支局長には日本の給与と海外の給与が二重に支払われていた。 突然、家が裕福になったのだ。 友人ができず、家に引きこもる私を、父は不憫に思ったのだろう。 日本ではとても高価だったミニカーを、それこそ毎日買い与えてくれた。 ウィーンからジュネーブへの転勤を経て、小学6年生で日本に戻ってきたとき、私のミニカーコレクションは1000台を超えていた。 ※本稿は、『身辺整理 ─ 死ぬまでにやること』(興陽館)の一部を再編集したものです。
森永卓郎
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