【光る君へ】イケオジ・宣孝からのプロポーズ 年齢差もあるのに、なぜ結婚? 史実での結婚生活とは
NKK大河ドラマ『光る君へ』第23話のラストでは、越前を訪れた藤原宣孝(佐々木蔵之介)がまひろ/紫式部(吉高由里子)にプロポーズした。年齢差も大きいのに、なぜ宣孝は結婚を申し込んだのか? そしてなぜ、紫式部は結婚を受けるのか。『紫式部日記』などを参考にしつつ、実際の関係性を見てみよう。 ■なぜ宣孝と紫式部は結婚したのか? 藤原宣孝は派手好きでオシャレな「イケオジ」的な人物であったと推定される。これは、清少納言が『枕草子』に記している、本来なら地味な服装で行く御嶽詣に超ド派手な色合いの衣服をまとって訪れた……というエピソードからも伺える。 そんな宣孝と紫式部が結婚した当時、宣孝は40代半ば、紫式部は20代後半で、年齢差は大きかった。そして宣孝にはすでに3人以上の子どもがいて、多くの男子(5人とも)にも恵まれていた。 その彼が紫式部に目をつけたのは、彼女の文才に惹かれたからと考えられそうだ。結婚後、紫式部が『源氏物語』の前進となるような物語を書き始めたとき、宣孝は作品を持ち出し、他の妻に見せて自慢。紫式部が怒り狂ったという逸話もある。 一方、なぜ紫式部が結婚を受け入れたのかといえば、父・為時の無職期間が長く、婚期を逃してしまっていたからであろう。宣孝は出世の登竜門と言われた弁官を務めた能力のある人物であったから、年齢差はあったとはいえ、ありがたい申し出であった。 ■あまり幸せではなかった宣孝との結婚生活 彼女にとってはいわば打算的に受け入れた話ではあるが、結婚生活はあまり幸せなものにはならなかった。結婚の翌年に娘・賢子(大弐三位)が生まれたものの、以降、宣孝が紫式部の元に通うこともほとんどなくなった。夫婦仲はあまり良くなかったとみるべきだろう。 ともあれ、二人の結婚生活は3年にも満たずに終焉。宣孝が疫病のため、1001年に亡くなってしまったからである。夫の死に臨んで、紫式部が詠んだ歌が残されている。それが、「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」というものであった。 「火葬で焼かれた夫の煙を見た夜から、塩釜を身近に思えるようになりましたわ」という、なんとも味気ない歌であった。しかも、紫式部が亡き夫を偲んで詠んだのは、これ一つというから、実にわびしい限りである。 さらなる問題はその後だ。夫の死後、紫式部はかつての「思い人」であった具平親王と、再び歌のやり取りをしはじめたのである。