【光る君へ】イケオジ・宣孝からのプロポーズ 年齢差もあるのに、なぜ結婚? 史実での結婚生活とは
■夫の死後、かつての「思い人」と交流 やりとりは、紫式部が庭に咲く八重山吹を折って具平親王の元に贈ったところから始まった。 これに応じた親王が、同じ山吹の花を贈ってよこしたとか。そのお礼にと、再び紫式部が詠んだのが、「折からひとへにめづる花の色は 薄きを見つつ薄きとも見ず」というものであった。「いただいた山吹の花の色は、薄いとはいえ、とても美しいものでしたわ」というような意味合いか。 そのたわいない内容はともあれ、夫亡き後、かつての「思い人」であった具平親王を思い出して歌のやり取りをしはじめたというのだから、ただ事ではない。夫への思いがいかに軽かったか、その度合いが推し量れそうな逸話というべきだろう。 さらにもう一つ、紫式部が具平親王を忘れきれなかった証拠とされるのが、『紫式部日記』にまつわるお話である。具平親王が亡くなったのは1009年7月28日であったが、この月から半年にわたって、記載が途絶えている。これを具平親王の死と関連付ける識者も少なくないのだ。つまり、紫式部が筆をとることすらできないほど、親王の死を悲しんだと見なすのである。 要するに、紫式部は宣孝と渋々結婚した挙句、夫婦仲も冷めたまま夫に先立たれてしまった。それ以降、夫のことなどすっかり忘れて、元の「思い人」であった具平親王を思い出しながら暮らしたということになりそうだ。 となれば、紫式部が宣孝を愛していたとは、とても思えそうもない。同時に、やはり宣孝との結婚生活が幸多きものだったとも思い難い。 「打算の産物」としての結婚が幸薄いことであるというのを、紫式部自らが実証してみせたということなのだろうか。この辺りは本人しかわからないことではあるが、何やら真理をついているようで、気になってしまうのだ。
藤井勝彦