消えたい気持ちを抱えて生きてきた──不登校や誹謗中傷、原発移住を経た、金原ひとみの「苦がない」今
苦しかった学校「不登校は成功体験」
金原は少数派の人生を歩んできた。幼稚園の頃から休みがちで、小学4年の時には全く学校に行かなくなった。 「別にイジメられたわけではないし、友達もいました。でも、常に同じ時間に同じ場所に行って、ずっと同じ人たちと一緒にいる生活がどうしても苦しかった。魂が死ぬと感じるほど嫌だったんです。それでも、小3くらいまでは普通に通っていましたし、登校を嫌がると怒り狂った母に引きずられて登校することもあって、時代的にも学校に行かないという選択は難しかった。だから、不登校は自分の権利を勝ち取ったという成功体験でもあったんです」 小学6年の時に父親の仕事の都合でサンフランシスコに移住。その時、父が買ってきた村上龍や山田詠美の小説にハマり、自分でも物語を書き始めた。1年で帰国して中学に入学するも不登校は変わらなかった。 高校は半年で中退。アルバイトも長続きしなかった。だが、短編も含め30を超える小説を書きため、2003年に『蛇にピアス』ですばる文学賞に輝く。翌年1月には20歳で芥川賞を受賞。突如現れたヒロインとして脚光を浴び、その年に結婚もした。人生が一気に好転したように見えるが、誹謗中傷もあった。 「デビューして間もない頃、担当編集者だった夫に読者ハガキを見せられたんですよ。普通は担当者が罵詈雑言は省くんですけど、全くしていなくて。『死ね』とか『集英社の本は二度と買わない』という投書もありました。もちろん好意的なハガキがほとんどでしたけど、皆に好かれるのは不可能なんだなあと感じて、世間から嫌われて、排除される覚悟ができたように思います。今も新刊が出たらエゴサーチしますけど、いろんな人がいるなあと世界の広さを痛感します」
バッシングしている人にはわからない 原発移住のつらさ
東日本大震災の時、金原は臨月を迎えていた。当時、原発事故に関する情報が錯綜し、何が真実なのか見分けがつきづらかった。そのため、不安を抱いた彼女は長女とともに東京から岡山への移住を決意。震災の半年前に亡くなっていた祖母の空き家で過ごし、2012年にはパリで生活を始めた。これらの行動には賛否両論あった。 「私は職業柄自由に動けましたけど、状況的に行動に移せない人もいましたし、当時は被害の全貌が分からなかったので風評被害を懸念する人もいて、そのやるせなさや怒りが移住者に向けられたのだと思います。臨月で夫とも離れて移住することになって、私自身つらかったですけど、その苦しみはたたいている人にはわからないし、たたいている人たちの苦しみも私にはわからない。あの時、自分も含めた人間の想像力の限界に直面して、その経験から書くものも少しずつ変化していったように思います。人の考え方や行動に画一化を求める閉塞的な日本の空気がつらくて、これを機に新しい体験をしてみようと思い海外に行きました」