『光る君へ』百人一首が生まれた地はどこ?紫式部の家系をたどると、意外な親戚や、百人一首でおなじみの有名歌人がずらり
◆小倉山の山荘で編纂された「小倉百人一首」 一般的には、かるたでおなじみの「小倉百人一首」。昔、学校で習った、暗記した(させられた?)という人も多いのでは。 『古今和歌集』『新古今和歌集』など、天皇の命により編纂された歌集から、100人の歌人の歌を1人1首ずつ選んだもので、その成立はおよそ800年前。歌人・藤原定家が、小倉山の山荘で編纂したといわれています。定家自身の歌もしっかり入っているのは、自信の表れでしょうか。 小倉山で編まれたから「小倉百人一首」と呼ばれるのですが、さて、その小倉山はどこにあるかごぞんじですか。 実は、嵯峨にあるのです。この連載では嵯峨嵐山界隈をよく取り上げていますが、平安時代や紫式部に関連した場所や行事がそれだけ残っているということでしょう。平安貴族に愛されたこの地の魅力を、あらためて感じます。 ざっくり説明すると、渡月橋のかかる大堰川(桂川)をはさんで、南側にあるのが嵐山、北側にあるのが小倉山。こんもりした形の低い山で、眺めていると穏やかでやさしい気持ちになります。そんな雰囲気が、平安文化の風雅に合っていたのでしょうか。 常寂光寺の境内をはじめ、小倉山のふもとには、定家の山荘の跡地と伝わる場所が数か所あります。真偽のほどはわかりませんが、どこも「いかにも……」と思わせる風情を漂わせています。
◆道長の曽祖父が歌に詠んだ小倉山 小倉山を詠んだ歌では、「小倉百人一首」(26番)の貞信公(ていしんこう)=藤原忠平(ただひら)のものが有名です。 「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」 美しい小倉山の紅葉よ。もしも人の心が分かるなら、もう一度天皇がお出ましになるまで、どうか散らずに待っていておくれ。そんな意味ですが、実はこの歌は、「紅葉は今が盛りです。今のうちに、行幸されてはいかがでしょうか」と、醍醐天皇に紅葉見物を勧めるためのものだったとか。 藤原忠平は、藤原氏全盛の礎を築いた人物で、道長の曽祖父にあたります。この頃から、紅葉の季節には、天皇の大堰川への行幸が行われていたようです。 貴族だけでなく、天皇もわざわざ足を運んだ紅葉の名所。今も昔も、嵐山や小倉山の景色には、人の心を打つものがあるということでしょう。 小倉山といえば、もうひとつ有名なものがあります。和菓子などに使われる「小倉あん」は、この小倉山が発祥の地だと言われているのです(ただし諸説あり)。 二尊院には「小倉餡発祥之地」という石碑も建っています。 そこに書かれた由来によると、日本で初めて小豆と砂糖であんが炊かれたのは、平安初期の820年のこと。小倉の里に住んでいた和三郎という菓子職人が、空海が809年に中国から持ち帰った小豆(大納言小豆)の種子を栽培し、嵯峨天皇から賜った砂糖を加えて煮つめ、天皇に献上したのが始まりだとか。当時、砂糖は貴重品だったので、甘いあんを食べることができたのは、皇族や上流貴族に限られたようです。 つまり、紫式部の時代には、小倉あんは存在したことになります。さて、一条天皇や中宮・彰子は小倉あんを召し上がったのでしょうか。
SUMIKO KAJIYAMA
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