『光る君へ』百人一首が生まれた地はどこ?紫式部の家系をたどると、意外な親戚や、百人一首でおなじみの有名歌人がずらり
◆紀貫之と和歌を詠み合う 大叔父にあたる藤原清正(きよただ)も、曽祖父の藤原兼輔(かねすけ)も、三十六歌仙(藤原公任が選んだ平安時代の和歌の名人36人)のひとり。兼輔の歌は「小倉百人一首」にも採録されています(27番)。 「みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ」 中納言兼輔(藤原兼輔) みかの原から湧き出て流れる泉川の「いつみ」という言葉のように、いったいあなたをいつ見て、こんなに恋しいのだろうか、という意。一度も会ったことがないのに、相手に恋焦がれているという歌です。 この歌が、紫式部のひいおじいちゃんの作だったとは……。祖父の雅正(まさただ)も歌人として知られ、兼輔の屋敷(のちに紫式部も住んだ場所です)には、やはり三十六歌仙の紀貫之らが集い、和歌を詠み合っていたようです。 ドラマでも、こうしたつながりを意識したのでしょうか。公任の妻(役名は敏子)が主宰する四条宮の学びの会で、まひろが紀貫之の有名な歌を題材に和歌を教えるシーンもありました。 「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」 紀貫之 こちらも「小倉百人一首」の一首(35番)。人の心は、どうだかわからないけれど、昔なじみのこの土地(奈良)では、梅の花だけが、昔と同じ香りをただよわせています、といった意味です。
◆家系をたどるとみんな親戚? ついでにいうと、雅正の妻(つまり紫式部の祖母)の父親であり、兼輔の従兄弟にもあたるのが、歌人としても名高い右大臣・藤原定方(さだかた)。定方の歌は「小倉百人一首」にも入っています(25番)。 「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」 三条右大臣(藤原定方) 逢坂山のさねかずらの名が、恋しい人に「逢って」「寝る」ことを暗示するのなら、さねかずらをたぐり寄せるように、人に知られずに、あなたを連れ出す手立てがないものだろうか。そんな人目を忍ぶ恋の歌で、さねかずらは「小寝(さね)」(一緒に寝る、一夜を過ごす)に掛けられています。 定方は醍醐天皇の叔父(姉が宇多天皇女御で、醍醐天皇の生母)にあたり、醍醐天皇の外戚として出世しました。また、紫式部の夫、宣孝(のぶたか)は、定方の直系の子孫(ひ孫)です。 家系図を見ていると、みんながどこかでつながっていて(たとえば、公任の妻は村上天皇の孫なので、醍醐天皇のひ孫となり、定方につながります)、頭がこんがらがってきます。 さらに、定方の孫の穆子(むつこ/『光る君へ』では石野真子さんが演じています)は、道長の正妻・倫子の母となったため、中宮・彰子にもつながっていくという具合……。 複雑すぎてクラクラするので、家系図を精査するのはこのくらいにして、「小倉百人一首」との関わりに話を移しましょう。 先に紹介した曽祖父の兼輔や定方のように、「小倉百人一首」には、紫式部の親類縁者の和歌がいくつも採録されています。紫式部自身や、娘の大弐三位(だいにのさんみ、賢子)の歌もしかり。 それだけではなく、公任や赤染衛門、清少納言、和泉式部など、『光る君へ』に登場する人々の歌もたくさん選ばれています。そう考えると「小倉百人一首」が急に身近なものに感じられるから不思議です。
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