ロッキードとパーティー券 なぜ日本の政治家はこんなに小さくなったのか?
復興と成長のブルドーザー
僕は建築が専門であるから田中角栄には多少の縁がある。 田中は若いころ建築の設計を仕事としていた。政治家になってから建築士の制度をつくって、自ら一級建築士となっている。僕は大学院時代に中央工学校という専門学校で設計の講師を務めていたが、当時はその学校の卒業生の田中が校長だったので、いつも田中角栄の名で辞令をもらっていた。田中の下にいたという高齢の人物がやはり講師をしていたが、人情味のある人で、田中を心から敬愛していた。 ちょうど1972年の自民党総裁選で、田中が対策本部をホテルニューオータニに設営したとき、僕は友人の結婚式に出向いて、本館と新館をつなぐ廊下でバッタリと出会った。向こうは記者と思われる人々に囲まれていたが、僕をジロリと一瞥した。オーラというのか、全身から大きなエネルギーを放射しているように感じた。 田中角栄は、雪深い越後の貧しい農家の出で、学歴も門閥もなく、戦後の混乱をのしあがって建設業経営から政治家に転じた。吉田茂に認められて、郵政大臣、大蔵大臣、通産大臣、自民党幹事長などを歴任して、ついに総理大臣にまで上り詰めた。 抜群の記憶力と数字に強いこととその実行力から「コンピューターつきブルドーザー」と異名をとり「今太閤」とも呼ばれた。企業との癒着(いわゆる黒い霧)の噂は常にあったが、その経歴から生まれる夢と野望の魅力が、そういった噂からくる印象の悪さを上回っていたのだ。 総理になって成し遂げた日中国交回復がその政治家としての栄光の頂点で、やがて金脈問題で追及され、さらにロッキード事件が明るみに出て、受託収賄の容疑で逮捕されるに至った。 政策的には、土木公共事業によって日本を便利にするという、まさに「列島改造」がその信条であった。新幹線を走らせる路線を決めるのに、自分で赤鉛筆をもって地図上にグイグイと線を引いたという。本州と四国の架橋ではいくつかのルートが提示され、閣僚や官僚たちは田中がどこに決めるのかと固唾を飲んでいたが、彼は「3ルート全部やる」といって周囲を驚かせたという。要するに彼は、戦後日本の、復興と成長の原動力、まさに「コンピューターつきブルドーザー」であったのだ。 田中に直接縁のある人は、彼の人並外れた能力と人情味を賞賛する者が多い。