ロッキードとパーティー券 なぜ日本の政治家はこんなに小さくなったのか?
「空腹の必然」から「良識の必然」へ
しかしこの田中の政策が本当に効果を発揮したのは、総理になるまでの期間であって、総理になってからは時代の変化に合わなくなっていたように思われる。 「列島改造」の掛け声は、建設業を中心に過大な需要を生み、狂乱物価を招いた。結局、政敵の福田赳夫に経済の舵取りをゆだね、総需要抑制によってインフレを抑える方向に進まざるをえなかったのである。 「政治は力、力は数、数は金」。田中政治を表す言葉として使われるが、それは戦後日本社会の、敗戦という秩序崩壊からの空腹と混乱の中を、裸一貫、実力でのし上がった男の必然であり、日本社会の必然でもあった。いわば「空腹の必然」である。 しかし高度成長が一段落して一億総中流社会といわれる時代となって、その「空腹の必然」は正当性を失って「良識の必然」が求められていく。僕は、田中政治の本質的な問題点は、よくいわれるブルドーザー的能力と金権体質の善し悪しでもあるが、政策においてもまたその手法においても、転換する時代状況とのあいだに齟齬を生じたことだと考える。 ロッキード事件において東京地検はその転換と齟齬を察知して動いたのではないか。その時点においても自民党最大派閥の長であり、日本政界最大の力をもつ前総理を逮捕するにはそうとうの勇気が必要だったと思われるが、以後それが、地検特捜部の栄光のモデルとなったような気がする。 しかし「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、その後も自民党の政策は、基本的に田中路線の継承であり、結局はそれがバブル崩壊につながったのだ。
何もしない政治家こそ巨悪
田中角栄は「巨悪」と呼ばれた。 テレビの報道番組では、リクルート事件における竹下登、東京佐川急便事件における金丸信などもそれに準じる扱いであった。しかしこの二つの事件は、政界に薄く広く金が撒かれたのであり、ロッキード事件に比べれば「分散的」だ。巨悪という言葉はピンとこない。いわば「中悪」ぐらいか。今回のパーティー券問題もきわめて分散的で、かつ特定の企業から金を受けとったというのではなく「不記載」の罪であり「小悪」という印象がある。ビートたけし流にいえば「ウラの金みんなでもらえば怖くない」といったところか。 それにしても、このようにロッキード事件とパーティー券事件を比べてみると、いかにも「日本の政治家が小さくなった」という印象を否めない。果たして、巨悪は大きな悪であり、小悪は小さな悪なのであろうか。むしろ巨悪とは巨人の悪であり、小悪とは小人の悪ではないか。 少し前にこの欄で、正義には「法律的正義」「思想的正義」「人間的正義」があると書いた。田中には、列島をより便利なものに改造して地域格差をなくすという思想があった。義理人情に厚いこともよく知られている。いわば人並外れた「思想的正義」と「人間的正義」があった。しかし安倍派幹部の面々にはそういった正義が感じられないのだ。その点に、ロッキード事件とパーティー券事件の本質的な違いがあるのではないか。 国民が政治家に求めているのは「法律的正義」だけではなく、それ以上のものだろう。具体的にいえば、国家をよりよいと思われる方向に変えていく信念と実行力である。 もちろん歴史を見れば、時にその方向は間違っている。国民とともに、官僚や学者やマスコミは、できるだけ間違わないように修正の力を加えなければならない。その力を受け方向を修正しながらも国家の舵取りをして前に進んでいくのが政治家というものだ。 信念と実行力のない、何もしない、何もできない、そういう政治家がいるとすれば、それこそが「巨悪」ではないか。 この記事に取り組みはじめたとき、旧田中角栄邸が全焼するというニュースが入った。今の政治の実状に「角さん」の怒りが燃え上がったようにも感じられた。 一時期、この家は日本政治のひとつの舞台であった。オオイソ(吉田茂邸)、オトワ(鳩山一郎邸)、メジロ(田中角栄邸)は、その時代の「政治用語」であったのだ。 最近は、私邸の所在地が政治用語になるような、巨きな政治家は出てこない。寂しいじゃないか。不記載も哀しいが、その罪を秘書と会計責任者にとらせ、国を変えるどころか保身に汲々とする、政治家としての小ささが哀しい。 日本国民は今、無意識のうちにその哀しみを噛みしめているような気がする。