ストリッパーとオリガルヒの御曹司の笑えて泣けるラブストーリー「アノーラ」が描き出すアメリカの断層
(元吉 烈:映像作家・フォトグラファー) ニューヨーク・ブルックリンのロシア人コミュニティを舞台に、ストリッパーの主人公アノーラと、オリガルヒ(ソビエト連邦の崩壊後のロシア経済の民営化で急速に成長したブルジョワ)の放蕩息子イヴァンとの恋愛をハイテンションで描く映画「アノーラ」がアメリカでヒットしている。10月半ばに公開された後、現在も多くの映画館で上映されている。 【写真】イヴァンにまたがるストリッパーのアノーラ 監督のショーン・ベイカーは「レッド・ロケット」や「フロリダ・プロジェクト」など、近作では性産業に従事する人たちを描いてきたが、本作でもそのテーマは一貫している。 ニューヨークのブルックリン南端、ロシア系移民が多く住むブライトン・ビーチを舞台にアノーラとイヴァンのロマンス、それに反対するイヴァン一族のてんやわんやが繰り広げられる本作は、監督自ら言うように現代版シンデレラとも言える物語だ(ストリッパーは必ずしも性産業ではないが、アノーラはストリップ・バーで知り合った男性客と店外でセックスをしている、という意味で性産業従事者と言える)。 ※映画の物語に触れるネタバレがありますのでご注意ください。 ストリップ・バーでアノーラが次々と男性客に声を掛けていくシーンから始まる本作。大きな口と瞳が一際目立つにもかかわらず、この主人公は、なかなか男性客からいい返事をもらうことはできないし、客の取り合いで同僚との諍いも絶えない。 店の営業が終わる早朝に帰宅して、窓のすぐ外に電車が轟音で通過する部屋のベッドに沈み込んでいると、ルームメイトに「牛乳を買ってきたか?」と聞かれ、アイマスクを外すこともなく「冷蔵庫にないんでしょ? (それなら買ってない)」と答えるなど、自宅でも殺伐とした人間関係をサバイブしている。
■ 視聴者を引き込むストリップ・バーでの演出 アノーラの暮らすブライトン・ビーチのエリアは、一般的にはニューヨーク中心部から一番近いビーチとして知られているが、観光客で賑わうボードウォークから少し離れれば、旧ソ連のウクライナやウズベキスタン、ジョージア系のレストランや食料品店が広がる、どちらかというと低所得者が暮らすエリアだ。 アノーラの働くバーはマンハッタンにあると思われるが、バーの営業が終わる時間帯の、深夜から早朝にかけてニューヨークの地下鉄に乗ったことがある人ならば、マンハッタンからブライトン・ビーチの距離を、待てども暮らせども来ない地下鉄を待って家に帰る苦労は並大抵でないことがわかるだろう(ニューヨークの地下鉄は24時間運行だが、深夜になればなるほど本数が減りダイヤも乱れる)。 このようなアノーラの現実を活き活きと描いていることが、この映画の最大の魅力のひとつだ。 映画の冒頭、バーで働くアノーラを丹念に追いかけるシーンは、撮影用に貸し切ったストリップ・バーに配されたエキストラが本物の客やスタッフのように振る舞うなか、アノーラを演じるマイキー・マディソンが、まるでそこで実際に働くかのように自由に歩き回りながら男性客に声を掛けながら撮影されたという。 このようなシーンを撮影する場合の多くは、どこからどこまで歩いて、誰に話しかけて、このようなセリフを話す、と事前に動きや台本を決めた上で、その部分だけ撮影するのが通常だが、本作でのベイカーはマディソンの自然な演技を引き出すために、約30分間、自由に歩きながら実際に客に声掛けをするように演出された。 ここでは、マディソンは客から断られ続けることのみが事前に決まっていて、あの手この手で説得するアノーラと客とのやりとりは必見の面白さだ。 また、通常は撮影後の編集で使いやすいように、エキストラは口を動かしても声を発さないというかなり不自然な状態で撮影するのだが、このシーンではエキストラも実際に話して撮影することを選択したことで、まるでドキュメンタリーを見ているかのように自由に振る舞うマディソンの表情や身体が映し出されている。