子どもの「スマホ依存」、どう向き合うべきか? 取り上げる事が「解決」ではない場合も
「自分に興味を持ってくれる存在」を求める子どもたち
仕事にせよプライベートにせよ人は価値観を共有出来る場所や相手を求め、探し続けながら生活を続ける生き物だ。大人であれば家庭や職場・アフターファイブに、子どもなら家庭や学校・習いごと教室へと、居場所を変えて人生をさまよう。 ただ我々大人が子どもたちのためにも強く認識しなければならないことは、大人に比べて子どもの選択肢は少ない、という現実だ。学校でいじめられて「嫌なら逃げろ」と言われても、学校や習いごとなどの教室に関する選択権はたいてい親に委ねられている。手元でボタンを押すだけで必要な情報を集めることができ、友達まで探すことのできるスマホに子どもが依存をしてしまうのはある意味仕方がない。「時代の変化」なのだ。 しかし誰にとっても厄介な問題は、ぱっと見でグレている子が分かる時代と異なり、今の子どもは一見しただけでは彼らの置かれた状況が分かりにくいことにある。彼らの異変に他人が気付くには、それこそ気の長くなるような覚悟とたくさんの目による「見守りシステム」が本来は必要であり、学校でその異変に気づいてもらえない子どもたちの多くは習いごとやスマホでの交流を通じて、その淋しい心を満たしていく。 さらに塾や習いごとに通わない(通えない)子どもたちは家と学校のみの行き来となりがちなため、その補完がスマホ以外になくなることも多いだろう。教育格差問題の本質はスマホ依存における問題の本質と同様に、家庭の経済的な理由により塾に通えるか否か、もしくはスマホを持たせるか否かと言う表面上の話だけでは決してない。社会生活の中で疲弊し余裕をなくした大人が家庭や学校環境において子どもたちの心を無自覚に押しつぶしてしまうという社会的構図にこそ、存在する。 結果として生じた格差を問題視するよりも、学習機会の公平性を子どもたちに保証し、大人が作り上げた家庭および学校の環境によって生じる学力差=「環境学力差」を埋めるべく社会は努力するべきなのだ。