敦康親王の妻選びに隠された道長の思惑とは? “万が一”があった時の保険とされた政略結婚の結末
■「東宮のスペア」だった生涯のなかに幸福はあったのか? 敦康親王が誕生したのは、長保元年(999)の冬のことだった。一条天皇の第一皇子であり、母は一条天皇に深く愛された皇后・定子だった。普通であれば待望の皇子誕生に宮中が沸くところであるが、彼の場合はかなり複雑な状況での誕生だったのである。 まず母方の祖父である藤原道隆はすでに亡くなっていた。その上、定子の兄である伊周・隆家は4年前の長徳の変で失脚しており、本来であれば敦康の後ろ盾になるはずの母方の実家・中関白家がすっかり没落していたのである。 しかも定子自身も一度は出家した後に敦康親王を身ごもっており、これには宮中の人々も眉をひそめたという。そんななかで敦康親王誕生とほぼ時を同じくして藤原道長の娘・彰子が入内したのだった。 母・定子も長保2年(1000)にこの世を去ってしまい、敦康親王の前途は不穏だった。とはいえこの時点で一条天皇の皇子は1人しかおらず、道長は彰子が皇子を産まなかった時のことを想定し、長保3年(1001)に当時13歳だった彰子のもとで養育するようにした。この背景には、定子亡き後、遺児の養育を任されていた定子の実妹・御匣殿が一条天皇の寵愛を受けるようになったことに対する牽制の意図もあったと考えられている(結局御匣殿はまもなく亡くなる)。 敦康親王にとって幸運だったのは、養母である彰子が真心を込めて育て、慈しんでくれたことだろう。ただし、それもすべて道長にとっては「保険」だった。 敦康親王の運命が大きく変わったのは、10歳になった年の秋のことだった。寛弘5年(1008)9月、彰子がついに待望の男子、第二皇子・敦成親王を出産したのである。以降、道長は自分の孫である敦成親王の立太子を目論むようになる。 寛弘8年(1011)、一条天皇は体調不良から譲位を決断し、藤原行成に敦康親王の立太子について意見を求めた。しかし、行成は道長の意向を汲んでか、敦成親王の立太子を進言したのである。結局同年に皇族の最高位である一品に叙されていた敦康親王ではなく、敦成親王が東宮となった。この時敦康親王は13歳、新たな東宮・敦成親王はわずか3歳だった。敦康親王を養育した彰子はこれについて父・道長に猛抗議している。 敦康親王は『大鏡』に「御才いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞおはしましし」と記載があるほどで、品格と人徳を併せ持った人物だったために、藤原公任など道長に近しい人間ですら東宮、そして天皇へのルートから外れたことについて同情したという。 敦康親王が妻を娶ったのはその2年後、長和2年(1013)のことだった。お相手は具平親王の娘・祇子女王である。具平親王は村上天皇の皇子の1人で、優れた文人として知られ、詩歌管弦をはじめ書道、陰陽道、医術にも通じるという知的な人物だった。では、なぜ敦康親王の妻にこの具平親王の娘が選ばれたのだろうか。 じつは具平親王と道長は非常に密接な関係があった。具平親王の長女・隆姫女王が道長の長男・頼通の正室になったのである。『栄花物語』ではこの結婚は具平親王側からの要望だったとされるが、『紫式部日記』では道長が具平親王と縁があった紫式部に相談する様子が書き残されている。いずれにしても両者にとって都合の良い縁談だったということだ。 後の話にはなるが、最終的に具平親王の三女・嫥子女王は道長の五男・教通と、長男・資定王(源師房)は道長の五女・尊子と結婚している。つまり具平親王と道長の子女のうち3組の夫婦が誕生したことになる。それだけ両家の繋がりは強かった。 敦康親王の妻選びについて、権勢を誇っていた道長の思惑が介入しなかったとは考え難い。立太子させるつもりがない敦康親王を娘と結婚させるのは“うまみ”がないが、敦成親王に万が一のことがあれば敦康親王の立太子の可能性も出てくる。ということで、道長としては嫡男・頼通と隆姫の婚姻によって縁戚関係になっていた具平親王の娘ならば、敦康親王と身分も釣り合う上にある程度自分の思うようになるという算段がついていたのかもしれない。 敦康親王と祇子女王は仲睦まじかったようで、2人の間には長和5年(1016)に娘・嫄子が誕生した。敦康親王がその3年後、寛仁2年(1018)に20歳で亡くなるまでは、穏やかに暮らしたと考えられている。
歴史人編集部