当時はみんなライバルだった 80年代『ジャンプ』の人気漫画家が赤裸々告白
本当にギスギスしていました 当時はライバルとは絶対しゃべりたくなかった
和やかムードで始まった会見だったがコバヤシ氏は「もっとギスギスしたものかと思っていました」と言うと、当時のライバルに対する本音がこぼれ始めた。 「ライバルがいるから負けないように描こうとか、先輩だからがんばってこういう風に描こうとかそういう気持ちはすごくありました。ベテランも新人も同等だった」と秋本氏。嶋田氏からはもっと赤裸々なライバルへの当時の思いが語られた。 「本当にギスギスしていました。いまでこそ高橋先生と長くしゃべってますけど、当時なんて絶対しゃべりたくなかった。一緒にいるのも嫌だった。翼と北斗の拳、みんな敵でしたら。キャッツ・アイにしてもそうですし。DRAGON BALLも。で情報戦ですよね。相手がどんなクライマックスを持ってくるか。そういうときに潰しにいくんですよ。もっと面白いネタをぶつけにいく。もう少しおいとこうと思っていたネタをあえてぶつけにいく、潰しにいく。編集者どうしも仲悪かったんですよ。当時に比べると今はよくなったと思いますね。今は仲いいですよ」 一方、中井氏は、「私の場合はみんな仲間やったんですね。コンビでやっているので、嶋田がいい意味で一番のライバルだったかもしれない。面白い原作書いてくるとやっぱりいいの描かなきゃいけない、そういう気持ちになってましたね。お互いに作品の中で競争しているところがあったので」 嶋田氏から思いっきりライバル宣言されていた高橋氏は、「ぼくのライバルはやっぱり、ゆでたまごですね。ぼくよりも先にデビューされていたんで、ライバルというか目標みたいな感じでしたね」
長期連載での最大のピンチは、「仕事場に印刷所の方がいらしたとき」
長く連載を続けていく中で、最大のピンチはどんなときだったのだろうか? 秋本氏と高橋氏は、自身のスケジュール管理はきっちりとしていたが、読み切りと連載が重なったときは、精神的にも体力的にもきつかったという。 嶋田氏は「キン肉マン連載2年目のときにアメリカ編やりまして、あまり評判がよくなかったんですね。どうも人気が芳しくないと。1年に1回必ず漫画家全員が集合写真で表紙になるってのがあったんですけど、担当編集者が『来年君たち、この中にいないよ』って言ったんです。これはまずいと思って」 当時の子供たちは海外に行ったこともなく、興味はあまりなかったから、海外ネタのウケはあまりよくなかったという。その後、アメリカ編を切り上げて、一気に日本に呼び戻して人気が戻ったそうだ。 嶋田氏の原作を待ってから作画に取り掛かる中井氏は、「仕事場に印刷所の方がいらしたとき」と相当切羽詰まった時期があったことを明かした。