ドイツから名古屋の有松鳴海絞りをリブランディング、伝統工芸アパレルを刷新した風通しの良さ
移籍などをきっかけに新たな活躍を見せる選手がいる。経験と技術はあるがくすぶっていたベテランが、環境や監督が変わることで持っていた能力と役割がフィットし、新境地を見せることがある。この体現が、名古屋の伝統工芸品「有松絞り」で起きている。 その仕掛人が、スズサンCEO兼クリエイティブディレクターの村瀬弘行さんだ。明治中期に創業した鈴三商店に端を発する、有松絞りの影師(型彫り絵刷職人)の家に生まれた5代目だ。影師とは絞り加工のコーディネーターである。 有松というのは、名古屋市の南東に位置する地名で、江戸時代には東海道の間の宿。尾張藩の庇護のもと「有松絞り」の技術が発展し、最盛期には1万人以上の職人がいたという。 しかし、この絞りの技術も日本の多くの伝統工芸と同じく、斜陽に立っていた。それが今、ドイツ西部デュッセルドルフを起点に、ヨーロッパで再び輝き出している。
退屈だった故郷の伝統、ロンドンへの挑戦
「最初は興味がなかったんですよ」 取材が始まると、村瀬さんは開口一番そう述べた。
村瀬さんの実家は、隣近所も皆が有松絞りに従事する人たちばかり。愛知県の伝統工芸第一号に認定された、この特異で多様な模様が目を引く絞り技術も、村瀬さんにとっては退屈なものだった。
家業を継ぎたいとも思えず、ファインアートへの興味から東京の美大を目指した。 しかし、ここで運命は、村瀬さんの希望をはじく。 「不合格でした。現役受験の時は実力不足を感じたのですが、1浪した時は、合格発表を見てからそのまま東京で生活する気が満々なくらい自信がありました。しかし再び不合格。 私がダメなのではなくて、日本の大学が見る目がないのだと気を取り直して、名古屋へ戻る夜行バスの中で、海外進学を目指すことを決めました」 翌年、村瀬さんはイギリスのヒースロー空港に降り立った。提出したポートフォリオが通り、合格通知をもらったロンドン南西郊外にあるサリー美術大学に通うためだ。こうして村瀬さんは有松から遥か遠くに離れた。