[懐かし名車] 日産Be-1/パオ/フィガロ:“パイクカー”という文化を創造したクルマたち
限定生産のBe -1はあっという間に完売。投機対象にもなった
そのクルマが東京の舞台に立つ直前の1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで、歴史的な決定が下された。G5=先進5カ国財相・中央銀行総裁会議で、世界の基軸通貨であるドルを安値に誘導することが合意され、急激に円高が進んだのだ。それによる経済の停滞を防ぐために、日本政府は大規模な金融緩和策を実施。ダブついた資金が投資先として向かったのが株や土地だった。バブル経済の引き金はそうして引かれたのである。 現在もそうだが、円高は輸出業にとっては打撃である一方で、輸入した資源を製品化して付加価値を付ける日本の産業構造においては、かならずしも悪いことばかりではない。円高はドルに換算すれば、日本の資産が黙っていても増えていく、ということでもある。その増えた資産を将来的にも増やすために、多くの日本人の目が投資に向いた。あらゆるモノが、将来価値が上がるかどうかで見られるようになり、それはクルマも例外ではなかった。 日本の地価は、モーターショーでの人気を受けてBe-1が発売された1987年までのわずか2年間で倍以上に高騰した。一方、当初は発売予定のなかったBe-1は、急遽短期間で開発され、生産ラインの制約もあって、1万台の限定生産とアナウンスされた。 その希少性が、投資先を求める人々の目にも留まった。発売と同時に注文が殺到し、2か月足らずで受注を終了。多くの人が欲しくても手に入らない中で、中古車市場には130万円足らずからという新車価格を大幅に上回る値付けのBe-1が出回ったのだ。 当時のフェラーリなどのスーパーカーがそうであったように、コンパクトカーのBe-1が投機の対象となってしまったのだ。登場したばかりの小型車にプレミアムがつくのは、日本の自動車史上でも初めてのことだった。 ◆Be-1のインテリア。ダッシュボード上部は棚、メーターは独立式の丸形スピードメーターを中心に、その左手低い位置にエンジン回転計をレイアウト。ドア部に見えるのはパイプを使ったマガジンラック。 ◆ヘッドレストもドアのインナーグリップも丸い棒を曲げたような形状で統一されている。