【実録 竜戦士たちの10・8】(23)サッカー人気の高まりで募った野球界の危機感は球界再編問題へ
西武球団専務がぶち上げた「1リーグ制移行論」
1993年12月1日。東京・銀座のプロ野球機構会議室に12球団のフロント幹部たちが集まっていた。会議の名称は「プロ野球制度改革本部 第1回諮問委員会」。FA制導入、新ドラフト制への移行による人件費の高騰、さらにはJリーグ発足によるサッカー人気の高まり…。プロ野球界全体が大きな危機感を抱いての委員会発足だった。 まずは顔合わせ程度と思われていた初会合だったが、約3時間の会議の後、報道陣に口を開いた西武球団専務・小野憲二の発言が、大きな波紋を投げかけた。 「この会議の大きな目的はリーグ再編を話し合うことにあると認識している。西武は将来的に1リーグ制を考えている。1球団の問題ではない。スポーツが多様化している現状で、球界が新しいことをやっていかなければならないんです」。1リーグ制移行論をぶち上げたのだ。 この西武発言に呼応したのが巨人オーナー代行の湯浅武だった。「カタールでのワールドカップ予選の視聴率が50%を超える反面、野球の視聴率が落ちている現状を、どうにかしなくてはならない」。球界改革の必要性を唱えた。 FA制導入、ドラフト制度の廃止問題では共闘姿勢を見せていた巨人と西武だけに不気味さを感じずにはいられない。2004年の近鉄とオリックスの球団統合構想に端を発して、日本プロ野球初のストライキにまで発展した球界再編問題は、ここからスタートしたといってもいいだろう。 そして、名古屋市の中日球団事務所に残念な連絡が入ったのは2日の朝だった。選手会ゴルフのために沖縄入りしていた石嶺和彦が阪神入りを決め、中日、西武両球団に断りの電話を入れてきたのだ。 「元々、五分五分だったのだから仕方ない。十分な戦力が十二分にならなかっだけ」と強がってみせた球団代表の伊藤潤夫だが、ゴルフに参加していた川又米利に電話を入れ確認するあたり、それなりの期待を抱いていたのも確かだった。監督の高木守道は午後5時過ぎに名古屋市内の自宅に戻ったところで知らせを受けた。 「そうなった以上、仕方ない。今いる戦力でやるしかないんだから。クリーンアップは外国人2人と大豊(泰昭)だな。シーズン通して考えれば彼しかいないでしょ。来年、大きく変わりそうというのも大豊だから」 “ポスト落合”は石嶺から大豊へ。高木が描く94年版・強竜打線の青写真は、書き換えを余儀なくされた。=敬称略 (館林誠)
中日スポーツ