「年の三分の一は旅先の地図を携えた移動に費やしている」作家は異色の地図エッセイ集をどう読んだか
『旅する練習』はじめ、旅や移動をモチーフにした数々の傑作を著してきた作家・乗代雄介さん。自ら小説の舞台を歩き、風景を描写してきた作家は、地図製作者でもある翻訳家・東辻賢治郎さんによるエッセイ集『地図とその分身たち』をどう読んだのか。「群像」2024年9月号に掲載された書評を再編集してお届けします。
「地図」という一点から広がっていくもの
著者が「家族でただひとりその土地で生まれ」「子ども時代を過ごした」という地名は明記されないが、「山陽」「瀬戸内」などの言葉からあたりをつけることができる。「ぼんやりと広がる平らな土地に丘陵が島のように点在している」「南にどこまでもつづくような水田の景観は近世の干拓でつくられたもの」という記述でほぼ特定される。 私は縁あってその土地をよく歩くので、こうして文章を写しているだけでも景色が目に浮かんでくる。当地の図書館で、その広大な干拓地の一部を描いた一八一八年(文政元年)完成の絵地図の現物を見せてもらったこともある。襖二枚を半分以上隠すほどの大きさだったが、堤防や道や河川、水門に橋に神社に寺院に人家、並木まで描かれた細かさや、おそらく未修復だというのに鮮やかな地域別の彩色に驚かされた。 頭にこれぞという地図を持つ者は、本書を読みながらそれと照合しないではいられないだろう。そして、ほとんどの人が「地図」という一点からプリズムのように広がっていく四次元の射程に驚かされるはずだ。さらに、GPSを利用した地図アプリにもすっかり慣れた自分の頭にある「地図」の堅物ぶりに恥じらいもするのではないか。地図ほど、様々な思いを投影しながら作られも見られもしてきたものはない─古今東西の豊かな実例が柔軟に姿を変えて次々広げられてそれを実感する一方で、私の脳裏にある「地図」が、きちんと使えば多彩なモードが用意されているアプリの進化と反比例するように硬直の一途を辿っていることが痛感され、情けないのだ。 「偏在するものと目に見えないもの」の章では、マキャヴェッリが引かれ、『戦術論』において「指揮官は敵地の情報と地図を持参すべし」と簡単に解されることの多い部分が、「より正確にいえば原文はさまざまな具体的対象が描写されること(“descritto e dipinto”)を求めている」と指摘される。「私たちはしばしば地図の前で過程を状態と取り違える」が、軍事における地図では特に、描き込まれた陣形配置にせよ進軍の軌跡にせよ、それはある過程の終わりを示した状態でありかつ次の過程への始まりに過ぎない。 同じ箇所で用いられている「戦争は過程であり、平和は状態である」という中井久夫の言葉が端的に示すように、我々の「地図」が現状に硬直するのは無理もないことなのかもしれない。しかし、現代日本には馴染みのない用途の地図だからと済ますよりも、来し方と行く末の狭間で、状態から前後の過程を見る研鑽を積むべきなのだろう。 私が見た干拓地の絵地図の色にしても、そこに書き込まれた村々の名にしても、その区分けと名は今も多く残っている。それら干拓された順番に応じた数を名にし負うものもある地名と色々を合わせ見れば、江戸から明治、現在に至るまでの過程ぐらいは透かし見ることができなくもない。 地図と色との関係は「臓物と風の色」の章に書かれており、「隣接する所領を描き分ける方法」への言及もある。地図にまつわる話ならあらゆることがあらゆる時に顔を出す。そうやって何度も知らぬところへ思考が導かれ、思わぬところへ記憶を繫がれることになった。 「飛ぶことのいくつかの様態」の章では、旅客機の狭い座席の眼前にあるディスプレイに映る「奇妙な世界地図」が現れる。その上を「緩慢に移動してゆく点を見つめているとき、自分はたしかに地上を置き去りにして飛んでいるのだと確信できる者がいるだろうか」と筆者は問い、実直かつ優雅な文体で、イカロスを想起しながら思考を進めていく。人間の飛翔(浮揚するのではなく鳥のように自由に飛ぶこと)は、速度によって揚力を得ることで実現された。高みから地を見下ろすことへの欲望が地図に含まれるとして、それを見る我々は、時速八百とか九百キロで移動しながらでさえ、それをもたらした運動に思いを馳せることはない。