「年の三分の一は旅先の地図を携えた移動に費やしている」作家は異色の地図エッセイ集をどう読んだか
私は本書をしつこく旅に携行した
著者の思索は「地図とともに移動する存在」として足を止めて地図を見る時でさえ人は「自身の運動について何かを忘れているのではないか」という洞察に至るが、これは年の三分の一は旅先での地図を携えた移動に費やしている私にも腑に落ちるものだった。 件の干拓地の絵地図には、家屋の敷地に植わった松と思しき木の一本一本まで仔細に描いてあった。後に別の資料で水害の際は近くの木に登って難を逃れたという話を読んで納得したものだったが、今、本書を読んだあとの私はまったく反対の感慨をもって絵地図の松を思い返すことができる。川よりも海よりも低い地に水が流れ込んでくれば、人は「どこまでもつづくような水田の景観」の中で、見上げるといえばそれぐらいの木をすぐに見つけ、一目散に走ったに違いない。その時、あの大きな絵地図を防災マップのように思い返す者がいただろうか。そもそも大庄屋の家にあったというそれを、どれほどの人が目にしたというのか。 やはり、私は地図を見ながら「運動について何かを忘れている」のだろうし、地図製作について何も知らないのだろう。これらの不安は、本のタイトルにもなっている「地図とその分身たち」の章で、印象としてはやや唐突に差し込まれる一文に耳の痛い思いをする遠因でもあると思われる。「私は地図への関心がいつのまにか地理への関心にすりかわっていることに堪えられない」 なんだか後ろめたくなって、私は本書をしつこく旅に携行した。地図への緊張を解かぬよう、地図を忘れてしまわぬよう、道々繰り返し開いた。バスを待つ駅前のベンチで本を閉じて顔を上げた時、世界に面を取っている地図のあまりの多さがふいに迫って、本当に目眩がした。稀有な経験をもたらしてくれる本はそれだけで有難く、忘れ難い。 『地図とその分身たち』 私たちは「地図」を通して何に出会っているのだろうか。レベッカ・ソルニット『ウォークス』で知られ、地図製作者でもある翻訳家・東辻賢治郎の初めてのエッセイ集。
乗代 雄介(作家)