吉原のサラブレッド『べらぼう』主人公・蔦屋重三郎。父は「丸山」母は「廣瀬」なのに、なぜ「蔦屋」かというと…
◆重三郎の家族 蔦屋重三郎の父親は尾張(いまの愛知県西部)出身の丸山重助。母親は廣瀬津与といいます。母親は江戸生まれです。 残念なことに、重三郎の家族については、現在のところ、詳しく分かっていません。兄弟がいたのか一人っ子だったのかも不明です。ただ、吉原に生まれたということは、お父さんの丸山重助は、吉原で何かしらの仕事をしていたのだろうと予測できます。 叔父さんは吉原仲之町通りにある茶屋「駿河屋」の経営者で、義理のお兄さんに当たる蔦屋次郎兵衛も吉原五十間道にある引手茶屋を経営していました。 茶屋とは、吉原で働く夜のお姉さんたちと連絡を取ったり、待ち合わせをしたり、宴会を開いたりする場所です。重三郎は、吉原生まれの中でもサラブレッドだったということが分かりますよね。家族が吉原に詳しいとは心強かったことでしょう。
◆「蔦屋重三郎」誕生の背景 実際、重三郎が最初のお店を構えたのは、義理のお兄さんの蔦屋次郎兵衛が経営する茶屋の軒先でした。それが書店耕書堂です。 どういった事情でそうなったのか文献は残っていませんが、重三郎が7歳のときに、お父さんとお母さんは離婚することになりました。これを機に、重三郎は蔦屋という屋号の茶屋を経営している、喜多川さんの家に養子に入ります。 この喜多川さんの家は、その後重三郎とともに活躍することになる絵師の喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と何か関係があったのではと考えられています。 重三郎は、以降、苗字を蔦屋と名乗るようになりました。そうです。蔦屋重三郎という名前は、ここに誕生したのです。
◆重三郎の人物像 どんな子供時代を過ごしたのでしょうか。子供の頃からできがよかったのでしょうか。1772年(安永元年)、青年期の重三郎は、初めて自分の書店を出しました。場所は義理のお兄さんが経営する五十間道の茶屋の軒先です。名前は耕書堂とつけました。 そこからは早かった。遊郭のガイドブックやお勤めする人気風俗嬢のグラビア誌をつくると、それが大当たり。 吉原生まれのオシャレな書店経営者として、トレンドの中心にいた重三郎は、遊び仲間として、文化人にも強いコネクションを持つようになります。その関係から、次々と、人気作家や絵師たちとコラボ作品をつくり出します。これが、バカ売れするのです。 重三郎は、小説や絵本の販売の仕方も新しく開拓し、一躍江戸出版業界の寵児として踊り出ます。 きっと、情に厚く、人から信頼される人物だったのでしょう。仲がいいから、知ってるからなんて理由「だけ」で人は動かないものです。ましてや、相手は、気難しい作家連です。才能を認め、理解し、色々と面倒を見てあげたのではないでしょうか。 そうでなければ、一緒に仕事はしません。クリエイターには、そういう面倒なところが、ままあるものです。小さな気遣いの積み重ねが大きなビジネスチャンスを生んだと考えられます。 ※本稿は、『べらぼうに面白い 蔦屋重三郎』(興陽館)の一部を再編集したものです。
ツタヤピロコ
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