【小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない】津波という「想定外」から身を守るためにできること
小学生の手を引き逃げた中学生
釜石市の鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中学校。地震が起きると、壊れてしまった校内放送など聞かずとも、生徒たちは自主的に校庭を駆け抜け、「津波が来るぞ」と叫びながら避難所に指定されていた「ございしょの里」まで移動した(右図参照)。日頃から一緒に避難する訓練を重ねていた、隣接する鵜住居小学校の小学生たちも、後に続いた。 ところが、避難場所の裏手は崖が崩れそうになっていたため、男子生徒がさらに高台へ移ることを提案し、避難した。来た道を振り向くと、津波によって空には、もうもうと土煙が立っていた。その間、幼稚園から逃げてきた幼児たちと遭遇し、ある者は小学生の手を引き、ある者は幼児が乗るベビーカーを押して走った。間もなく、ございしょの里は波にさらわれた。間一髪で高台にたどり着いて事なきを得た。 釜石市街の港近くにある釜石小学校では学期末の短縮授業だったため、地震発生の瞬間はほとんどの児童が学校外にいた。だが、ここでも児童全員が津波から生き残ることができた。
ある小学1年生の男児は、地震発生時に自宅に1人でいたが、学校で教えられていた通り、避難所まで自力で避難した。また、小学6年生の男児は、2年生の弟と2人で自宅にいた。「逃げようよ」という弟をなだめ、自宅の3階まで上り難を逃れた。授業で見たVTRを思い出したからだ。既に自宅周辺は数十センチの水量で、大人でも歩行が困難になっており、自分たちではとても無理だと判断した。彼らは、自分たちの身を自ら守ったのである。
日本一津波に強い町で起きた想定外
三陸地方の町には、津波に対する人々の恐れが形となっていた。江戸時代の記録にも津波の襲来は何度も現れる。近代以降では、明治29(1896)年、釜石沖を震源として東北太平洋沿岸を襲った明治三陸大津波では死者約2万2000人に上った。同じく釜石沖を震源とした昭和8(1933)年の昭和三陸大津波でも多くの死者を出し、昭和35(1960)年にはチリ地震津波に襲われた。 それでも、自衛策をとりながら人々は三陸に住み続けた。例えば釜石市では、昭和53(1978)年から湾口の防波堤建設に着手し、30年かけて平成20(2008)年に、海底63メートル、水面上6メートル、幅が北に990メートルと南に670メートルの防波堤を完成させた。 宮古市田老町にも、高さ10メートルもある日本一の防潮堤が造られた。昭和8年の大津波の直後から建設が始められたもので、昭和53(1978)年に総延長2433メートルで工事は完成し、「万里の長城」と呼ばれるようになった。 だが、今回の津波はそれをも乗り越え、自治体が作成したハザードマップでは津波が到達しないと考えられていた避難所や高台地域も被害に遭った。まさに想定外の津波が来てしまったわけだ。今まで造ったものが無駄だったわけではないが、津波の浸入を食い止めることはできなかった。とはいえ、これまで以上の堤防を造ることは財政的に難しいし、海との関わりの深い生活を送ってきた住民は、海から隔絶される生活を望まないだろう。 だからこそ、ハードを進化させるのではなく、災害という不測の事態に住民がいかに対処するかというソフト、「社会対応力」の強化が必要になる。これが、私のやってきた防災教育だ。